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中学卒業にあたって(先生に宛てた手紙)

「ここはクラスに31人いて、全員、31分の1としか扱えないので、特別な声掛けが必要であれば支援学級に行ってください」

中学1年の夏休み前の三者懇談、担任の先生に、本人を目の前にして言われたこの一言が引き金となり、息子は学校に行けなくなりました。

忘れもしない私のこの年の誕生日。
私は、嫌がる息子を半ば強引にサマースクールに送り出しました。
10時過ぎに中学校からかかってきた電話で、息子が登校していないことを知りました。何人もの中学校の先生が近所を捜索してくださいましたが、見つかりません。(息子は小さい頃から、ショッピングセンターなどで迷子になっても助けも求められない、困っていることを表現することが苦手な子でした。)

この日は真夏日。
自転車に、所持品はヘルメット、マスク、勉強道具のみ。
炎天下の中、水筒もお金も携帯も持っていません。
「どうか生きて帰ってきてください」それだけを祈りました。

14時過ぎに知らない携帯番号からの着信。
「こども110番の家」の看板を頼りに、息子が勇気を振り絞って入った、小さな自転車屋さんのおばあちゃんからでした。
「お宅の息子さんがうちに来ている。○○に帰りたいと言うけど、そんな地名を私は知らない。ここは清州(市)だけど」と。
高速道路を使って1時間をかけて迎えに行きました。清州からの帰り道に息子から、道中起こった出来事を聞きました。

水筒も持たずに来たから、頭がクラクラして自転車でまっすぐ進めなくなった。
目がチカチカして道路に倒れそうになったから、神社や公園に寄って、手洗いのお水を飲んだ。
コンビニで少し涼もうと思ったけど、トイレをノックされて怖かったからすぐ逃げた。

・・・よく、生きていてくれたと思いました。
私を含めて、誰も息子の味方にはなってあげられていなかった。
誰にも助けを求められないから、逃げ出すしかなかった息子。

学校は、心を壊してまで、命を危険に晒してまで行かせる場所ではない。
そう思いました。


夏休み明けからは、総合病院の小児科通いが始まりました。発達障害の診断を得て、○○中学校に通わせてもらうための通院です。
みんなが学校に行っている時間帯に、体調はなんともないのに病院に行き、検査・テストを受け、病院の先生たちから、学校で困っていること、できないことをたくさん聞かれる。「困り感」のなかった息子にとって、「自分は人と違うのかもしれない」という気づきを得てしまった時期でした。

「僕はみんなに迷惑をかけている」「僕はみんなと違う」「学校を休んで病院に行っている」「病院で色々聞かれて疲れた」「お母さんも仕事を休まないといけない」「僕はどうせ・・・」極端にネガティブな発言が増えるようになりました。
のんびり、ゆっくりさんなりにも、毎日学校に行って、「ただいま」と汗だくで帰ってきて、興味のあることを話してくれていた息子。
やがて外に出たがらなくなり、私と弟以外の人と目を見て話すことができなくなりました。
誰かに話しかけられると、両手を膝の上でグーにして握り締め、うつむいて、じっと耐える様子が多くなりました。

自己肯定感をこれほどに落としてまでも通わないといけない病院なのか、ここまでして受け取る価値がある診断書なのか。

理解に苦しみました。

「お兄ちゃんが学校に行かないのに、なんで僕だけ頑張らないといけないの?」

そのうち、二学年下の弟も小学校を休みがちになりました。


○○中学校への通学の許可が降りたのは、そんな頃でした。

「私は○本と言います。「○」だから○○の絵が書いてあります。」
担当の先生はそう自己紹介してくださいました。何を言われても返事ができない息子に先生は、にっこり微笑みかけて
「○○くんが答えたくなかったら、声を出さなくて大丈夫。先生が話すことがわかったらうんと頷くこと、違っていたらううんと横に振ること、それだけお願いしてもいい?」
そう話しかけてくださいました。
俯いたままの息子は、膝の上で硬く握ったグーをさらに硬くグーにして、それでもなんとか、うん、とだけ首を小さく縦に振りました。

それが、2年前の息子の精一杯の意思表示でした。


それから2年が経過し、今日、息子は○○中学校最後の登校日を迎えました。3月○日の中学校の卒業式は出られないけど、2年間の○○中学校はほぼ皆勤賞で登校できました。息子都合での欠席は、たったの一日もありませんでした。

この2年間、特に3年生の1年間の成長は、本人も周りも驚くほどでした。年末に「2023年自分への『☆☆☆☆☆大賞』というテーマで書いた作文がそれを物語っています。
年度末にも、「I &愛プレゼン(自分の特技の発表)」をトップバッターで発表し、みんなの前で実演することができました。プレゼンの構成も、実演の準備をしている間に話す豆知識も、小・中学校、一度も読書感想文が書けなかった子が発表しているとは到底思えない内容でした。


日常生活でも変化が見られました。旅行に行っても、映画に行っても、何が楽しかったか、どう楽しかったか、そのときどう感じたか、どこが一番心に残っているか、次はどうしたいか、自分の言葉でよく表すようになりました。語彙が不足する部分や、イメージできない単語は自分でも調べるようになりました。
「どうして自分の言葉で話すようになったの?」
と尋ねると、
「(高校で頑張りたい)○○○○をするときに、一人でできるレベルや大会には限界があって、仲間とやらないといけない。その時に僕が何をしたいか、仲間がどう思っているかがわからないと上位レベルや上位大会に行くことができない。気持ちを伝えたり状況を説明したりしないと仲間と協力プレイができないから、本当は緊張するし話したくないけど、普段から話す練習をしてできるようにならないといけない」
という返事でした。
この考えを話せるということが親バカながら何よりすごいと思います。

人と関わらないことに「困り感」を持っていなかった息子が自発的に「話せるようになりたい」「コミュニケーションを取りたい」と思えるようになるために、先生がたくさんのスモールステップを用意してくださいました。
どれだけ周囲の大人が、将来困るから出来るようになった方がいいと言っても、本人にその気が無ければなんの意味もありません。

息子にとって○○中学校は、それが「困っている」ということなんだよと気づかせてもらえる場所、(しかも自己肯定感を下げることなく)、そしてどうしたらそれが解決できるか、ちょっとだけ勇気を出したら、自分のできそうなサイズ感にして示してもらえる場所でした。

ADHDと診断がつきながらも、授業中立ち歩いたりもしない、空気が読めない発言をしたりもしない(そもそも喋らないから)、友達と喧嘩もしない、手がかからない。誰にも迷惑をかけないがゆえに、通常の中学校では気づかれず置いて行かれてしまうような子。○○中学校ではまさに文字通り、一人ひとりと向き合い、違いを、特性を、その子の良さとして認めて、伸ばしてくださいました。

本当に、この中学校に通えてよかったなと思います。どこかで躓いた子たちがちょっと休憩してまた立ち上がるために手を差し伸ばしてもらえる、そんな場所であり続けてほしいなと思います。


学校で傷つく親や子がいれば、学校で救われる親や子もいる。
後者がもっともっと増えて、それが標準になって、特例校じゃなくなって、学校と言われる場所で関わる大人が当たり外れなく、○○中学校の先生みたいな方であったらいいなと思います。


そして私は、学校任せにするのではなくそれぞれの家庭が、地域が賢くなって、輪になって子どもたちのためになる場所づくりをしていきます。
大人が変われば、子どもたちにかける言葉が、連れていける場所が、見せる背中が変わる。
そういう思いで、これから高校でチャレンジする息子以上にチャレンジしていきたいと思います。

大人ってなんだか楽しそうだな!と、希望を持たせてあげられる大人たちを増やしていきます。


○○中学校の先生には本当にお世話になりました。

認めて、待って、寄り添って、息子がこれから見るであろう景色を変えてくださり、本当にありがとうございました。

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