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京風うつくし図鑑-3 [谷崎潤一郎の京都]

「京ことば(きょうことば)」の歴史は古く、平安時代にまでさかのぼると言われる。千年の都だった京都で話す言葉は、当時の標準語でやがて京文化が全国に広がるとともに、日本語の基礎となったとも伝えられている。今も現役の「京ことば」は、まろやかな音声(イントネーション)とやさしい言い回しで、関西でも独創的な存在感をもっている。こうした「京ことば」のイメージは演出効果に富み、名だたる文豪たちは好んで「京ことば」を登場させてきた。そこで今回の京風うつくし図鑑-3では、文学に登場する「京都や京ことば」をご紹介しようと思う。しかし、京都に居を構えて、名作を残した文豪は少なくない。その第一回は、谷崎潤一郎の京都愛あふれる名作と京都の名所との関りを通じて、もうひとつの京都をご案内させていただきたい。

「私は京の生まれではないけれども、京好きの点では京都人に劣らない。」

『細雪』は、文豪、谷崎潤一郎の3人目の妻・松子とその姉妹がモデル。「私は今日の生まれではないけれども、京スキの点では京都人に劣らない」と著作にメッセージを残した谷崎氏。東京生まれ、東京育ちの谷崎氏の京都愛は、名作『細雪(ささめゆき)』に描かれた京都の花見のシーンに色濃く現われている。『細雪』には京都の季節感、時々の情景が京風味で臨場感たっぷりに表現されている。平安神宮のあの著名な紅枝垂れ桜の華やかな描写と、やわらかな京都のニュアンスを通じて、幽玄のシーンが演出され、谷崎氏の深い京都への思いを感じることができる。

細雪のイメージ、京都の満開の桜

『細雪』、『夢の浮橋』、『春琴抄』…京都で生まれた名作たち

名作『細雪』は谷崎潤一郎が『潺湲亭(せんかんてい)』と名づけ、執筆のために借りていた家で書き終えた。その後、谷崎氏は糺の森にほど近いところにある屋敷を購入。そこを同じく『潺湲亭(せんかんてい)』と呼び、生涯で最も長い7年以上の歳月をここで過ごした。生涯40回を超える引っ越しをした谷崎氏が最も愛した京都の屋敷だった。今も離れの谷崎氏の書斎には、氏の友人で中国人書道家、痩鉄(そうてつ)作の扁額『潺湲亭』が飾られている。

今も谷崎氏の願いどおり、往事のままの姿を残す『石村亭』

この『潺湲亭』をモデルに描いた作品が『夢の浮橋』。主人公、糺(ただす)が本を手に橋を歩くシーンがあるが、この橋も谷崎氏の愛したこの庭に残されている。さらに庭に目を移すと石碑がある。松子が『夢の浮橋』の冒頭の歌を書に描き、文学碑に刻んだものである。この屋敷は、谷崎氏から譲り受ける際に、氏が名をつけた『石村亭(せきそんてい)』に名を変え、電気機器メーカー日新電機の迎賓館として活用されている。谷崎氏の希望通り、元の姿を変えることなく、在りし日のまま美しく受け継がれている。

京都への最高の賛辞、京風情あふれる谷崎文学の生誕地

京都・高雄の神護寺。谷崎潤一郎の三人目の妻となった松子の父は、大阪の造船所の重役で、神護寺との深い繋がりがあった。そのご縁で谷崎がこの神護寺の書院で『春琴抄(しゅんきんしょう)』を執筆した。かの川端康成をして、この作品は「ただ嘆息するばかりの名作で、言葉がない」と評した。小説家、円地文子は、『春琴抄』は谷崎文学中で屈指の名作とした。耽美的な谷崎文学の中でもひときわ評価の高い『春琴抄』は、映画、ドラマ、舞台とさまざまなアートフォーマットで上演された。この得難い作品が谷崎潤一郎が愛した京都で生まれ、今なお多くの読者に愛されることは、京都にとって最高の賛辞といえる。

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