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京のうつくし図鑑‐10《天橋立》を愛した人たち

かつてハネムーンに人気があったという天橋立。そもそも天橋立は神話に登場し、「神の住むところ」といって信仰を集めたと学校で習った。わたしの淡い記憶にも、年に一度の割合で天橋立に遊びに行っていたように思う。大きくなってあらためて天橋立が特別の場所聖地だったと知った。それをあらわす文献があるらしい。それでこそ、お気に入りの天橋立だ、とこっそり心の中でそんな思いを育てたものである。一般的に天橋立でだれもが思い出すのは股のぞき。優雅な京都にこの名称は「???」と思うが、天橋立は100年以上もこの呼び名で知られてきた。傘松公園や、天橋立ビューランドの股のぞきは、天橋立国定公園でのメインの観光スポットとして人気を集めている。天橋立は神話にあらわされ、百人一首に詠われ、雪舟や歌川広重に描かれ、日本三景として知られるようになった。1300余年の時を超え、愛され続けた天橋立は、いまなおその姿でわたしたちを向えてくれる。天から梯子があらわれ、静かに光が消えて天橋立となる、そんな風に天橋立を愛でてしまうのである。

神話に残る天橋立。聖地として信仰を集めるようになった。


奈良時代、和銅6年(713年)編纂された「丹後国風土記」に天橋立の記述が残されているという。そこにはイザナギノミコトが天と地を行き来するために梯子を架けた眠っている間に梯子は海の上に倒れてしまい、天橋立ができたとつたえられている。いささか神様を身近に感じるエピソードである。こうして神話時代の物語は、信仰を集めるようになり、天橋立はあこがれの聖地となった。

足利義満は天橋立愛がありすぎて、6度も訪れている

こうして天橋立の伝説が代々伝わり、権力者を魅了するようになったのだろうか。室町幕府三代征夷大将軍、かの金閣寺を建てた足利義満は6度もこの地を訪れている。文珠山から天橋立を眺めて「宇宙の玄妙」と称え、大絶賛したと伝えられている。天下を制した義満はあたかも天をも制した気分を味わったのかもしれない。

足利義満が建てた金閣寺

歌に詠み、屏風に描き、天橋立を模した庭園ー天橋立愛ー

雪舟の水墨画「天橋立図」:京都府丹後郷土資料館(レプリカ)

幾多の画家が天橋立を描いた中でも、驚愕の超大作と評価される、国宝・雪舟『天橋立図』(1500年頃作)。その大きさは概ね畳一枚分の巨大サイズ。

小式部内侍の詠んだ和歌

大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立
小倉百人一首』に編纂されている「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」はよくしられている和歌。和歌の名人、あの和泉式部の娘、小式部内侍(こしきぶのないじ)が詠んだ歌。母親に似てあふれんばかりの才能だったと伝わっている。

広く周知するようになったのは、歌川広重作「日本三景三部作」の天橋立

歌川広重:「日本三景之内 丹後天橋立」/「日本三景之内 安芸宮島」「日本三景之内 丹後天橋立」:舞鶴市糸井文庫所蔵

江戸時代の売れっ子浮世絵師歌川広重の手により、日本三景として天橋立が描かれ、日本の絶景として広く知られるようになった。

「はし立や松は月日のこぼれ種」を刻む、与謝野蕪村の句碑

与謝蕪村の句碑(画像:宮津市)

天橋立松林に佇む与謝蕪村の句碑には、代表作の「はし立や松は月日のこぼれ種」が刻まれている。

天橋立を愛し、幾度も訪れて、歌に詠んだ与謝野晶子、与謝野寛

与謝野晶子・与謝野寛の歌碑(画像:宮津市)

神話に語られる天橋立が、今も美しい姿を残している。6,700本におよぶ青々とした松並木に映える白い砂「白砂青松(はくさせいしょう)」が、約3.6km続く景勝地である。天橋立でよく知られる「股のぞき」にも、100年以上の歴史があり、ふさわしい物語がある。

天橋立名物の「股のぞき」、神秘の物語が伝わっている

そもそも股のぞき(またのぞき)は、自身の股の間から顔を出し逆さまにものを見る日本の民俗風習のひとつ。上下前後が逆になる状況を生み出すため、妖怪や幽霊にまつわる伝承が残されている。これはおそらく、日常空間と異世界との境界的役割をイメージするためかもしれない。京都に限らず、「股のぞき」には神秘的な物語が多数伝えられている。各地の伝承は漁師が幽霊船を見極めたりもののけを見分ける方法として「股のぞき」が有効と考えられていた。したがって、股のぞきは妖怪を見る未来を見るための方法論とされていたのである。

容姿端麗の舞子さん、芸子さんも股のぞきに挑戦!

舞妓さん、芸妓さんも景観を楽しむ「股のぞき」
出展:宮津市ホームページより

古代より人々の心を魅了し続けてきた謎多き天橋立の魅力

日本三景の1つ、「天橋立」は日本の名松百選・日本の名水百選など、多数の日本百選にも選ばれている。天に橋を架けたような美しい風景は、映像や画像でも観賞できる。謎めいた天橋立の魅力は、自然の作った摩訶不思議な景観が神々しく人の心を魅了しつづけた。

延長3.2kmに大天満橋と小天満橋がある天橋立。幅20m~170mの砂嘴(さし)でできている、天橋立。宮津湾と阿蘇海を分けている。文殊の切戸(きれと)と文殊水路があり、それによって両方の水面が通じている。
天橋立は、世屋川をはじめとする丹後半島東岸の河川から流出した砂礫が沿岸流で南下し、野田川の流入で生じる阿蘇海の東流が南下流の側面に当たり、江尻よりほぼ真っ直ぐに砂礫が海中に堆積し、約4千年前に天橋立が海面に現れたものと推定されているらしい。

天橋立が形成されたことで内海(阿蘇海)ができ、阿蘇海を取り囲むように約2100年前(弥生時代)から人が定住するようになった。そうして阿蘇海は多くの船が往来する国際貿易港のひとつとなり、丹後王国はとても裕福な都市へと発展していった。

空から天橋立の全貌をごらんください。

天橋立の空撮動画 Aerial video clip of AMANOHASHIDATE

登録:天橋立観光協会 Amanohashidate Tourism Association

天橋立 廻旋橋 Amanohashidate Rotating Bridge (Kaisenkyo)
登録:

「日本三景」を生み出したのは、儒学者の子息、春斎の着想

日本三景の碑(画像:宮津市)

「日本三景」は、儒学者・林羅山(らざん)の子、春斎(しゅんさい)が、寛永20年(1643)発行『日本国事跡考』で、松島を天橋立・厳島とともに「三処奇観たり」と名所3つをセットにして述べたことがきっかけ。それから「日本三景」という発想が生まれたそうだ。

江戸の養生訓で有名な貝原益軒

日本三景の意味を伝え、流行らせた、元禄の儒学者、貝原益軒

元禄2年(1689)養生訓で有名な儒学者の貝原益軒(かいばらえきけん)の紀行文、『己巳(きし)紀行』(きしきこう)には、「中村【成相乃麓也】 より観音堂まで十六町の坂をのぼる、其路甚嶮峻にて、輿馬の往来也かたし、(中略)此坂中より、天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也、・・・」の記述がある。「日本三景の一つと言われるのもその通りだな」と益軒が記している。この時代にはすでに日本三景は世間に知られていたようだ。

天橋立をじっくり観賞するなら、天橋立5大ビューポイント

天橋立を堪能できる5つのビューポイント



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