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人生の責任をとるのは和多志自身〜ライトワーカーの呟き(後編)

 和多志は自分の人生の責任をとる。翻って、誰も和多志の人生を保証してくれる者はいないのである。どれだけの人々がこのことを真に腑に落としているか。医者の判断や診断書で和多志の人生は全く決まらない。上司や雇用主の評価や査定で和多志の人生は何も証明されない。それを自分が「どう受け取るか」にだけ和多志の人生は、かかっている。

 人生は選択の連続。選ぶ自由もあるが、選んだ故の結果を全て引き受ける責任も同時に発生する。このことが世に浸透しているだけで、世界平和は大いに保たれるであろうと和多志には思えてならない。我が身の自由だけを声高に主張し、その結果〜特に自分にとって不都合な顛末〜の責任を周囲になすりつけるような行為は、宇宙(大いなる神)法則的に誰の救いともならない。

 さらに、この不都合な結果を自分に都合よく反転させるため誰かにどうにかしてもらおう…またはどうにかしてくれるだろう…というような邪な期待や依存は、遅かれ早かれいずれ自己破滅を招くであろう。それが自分の魂が納得した生き様であるならそれもいいかもしれないが、正直なところ甚だ傍迷惑な話ではある。即ちその行動は自分だけに帰結せず、周囲を必然的に巻き込むからである。

 「だからこそ三次元世界の遊園地は面白く究極皆がそれを遊びに来てるだけ…」という論調がスピリチュアル界隈で散見されるが、和多志にとっては(ポジネガを超越し悟った気で)フワフワ遊ぶつもりはない…くらいの感覚。人生の責任をとれない(保身ばかりする)ような人間がそもそも「人の上に立つな、影響力をもつ立場に居るな、自己正当化するような発言をするな」と言いたい。

 そんな人々(口から生まれたような信用ならない人びと)から長きに渡って振り回され、良いように利用され、犠牲ばかりを強いられてきている現状をどうにかして打破したいとしか思えず、「どんな人も魂に沿って生きてるんだから人を殺めようが、虐げようが、苦しめようが(自分が明るく生きていれば闇に力を与えないから)いいのいいの」とは到底達観できない。和多志はそんな人間だ。

 和多志は誰の敵でも味方でもない代わりに、自分自身の最大最愛最善のサポーターであり続けることを決めた。当然自分の人生の成り行きも自分で引き受ける。何人たりとも和多志の人生に干渉してくることを許さず認めず、関わらない。それが総理大臣だろうが、この世の「統治者」だろうが関係なく…和多志は和多志(魂・マインド=エゴ・身体)と共に「神の御意を体現していく」のみ。

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