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イタリア生活で心地良いなと思うこと

私がイタリアで生活している中で一番心地が良いなと思うところは、やはりイタリア人のその陽気な国民性とコミュニケーション能力の高さだ。

例えばアパートで偶然エレベーターが一緒になれば、まずは目を見て笑顔で挨拶。「Buongiorno(こんにちは)」「Ciao(カジュアルな挨拶)」。(同じアパートに住んでいると、顔を合わせることが多いのでCiaoでも良い場合が多い。)

私が住んでいるアパートのエレベーターは同時に別の階数を押すことができない。そのため階数が近い人から先に降りられるように、同乗者に何階に行きたいかを聞き、降りてもらってから自分の階数を押すのだ。

そこで先に降ろしてもらったら、感謝の言葉を交わし合う。「Grazie(ありがとう)」「Prego(どういたしまして)」。そしてまた挨拶。「Buona giornata(良い一日を)」等々。

ここまでは基本の挨拶で、時にはトークが始まったりする。

「郵便ポストにセールのチラシが入っている度に、何か欲しいものが無いかって確認するんだけど、全然欲しいものが無いのよね・・・」まだ渡伊したての頃、こんな風に急に話しかけられた時は驚いてしまって、何を言っているのか分からなかった。(もちろん語学力の問題もあるが・・・)

本当に誰とでも、突然コミュニケーションが始まる。

Mercato(市場)で服を見ていれば、この服が如何に良い物かを力説してくる。「まだイタリア語が分からないの」と伝えると、ゆっくりはっきりと全部イタリア語で説明してくる。勿論分からない。始めはこれが本当に可笑しくて笑ってしまった。彼らからすればコミュニケーションはハートだ!ということなのだろう。

そしてどこからともなく鏡を持ってきては試着させ、いかに似合ってるかを伝えてガンガン褒めてくる。そんなに言われたら、押しの弱い日本人代表!みたいな私は買うしかない。乗せられちゃったな〜と後から思うこともあるけれど、それでもどこか気分が良いのだ。

そんな生活をしていると、日本に帰国すると、少し寂しく感じる時がある。必要最低限のコミュケーション、日本特有の「言われなくても察する」という文化は素晴らしいものだけれど、それが基本になってしまうと機械的なコミュニケーションしか出来なくなってしまうような気がする。そして自分基準の「してもらって(やって)当たり前」というマイルールができてしまい、思っていたような反応を受けないと、不当な扱いをされたような不愉快な気持ちが芽生える。そして時には他人を避難してしまう。

「本音と建前」なんて言葉はイタリアには無い。言いたいことははっきり言うのだ。どれだけ伝えても価値観が合わなければ仕方がない。自分を相手に合わせようとしなければ、変えようともしない。それぞれが自分に正直に、自由に生きているのだ。

これはもちろん「イタリア文化最高!日本はダメ!」ということでは無い。日本には日本の培ってきた素晴らしい文化があるし、あんなに便利で快適な生活は他国ではできないと思う。

ただ、少なくとも私はこういったイタリアの文化は、人と人とのコミュニケーションや自分がどうあるべきかを考えさせてくれる、とても良い文化だと感じている。


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