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「猫を棄てる」を読んで思うことを語るときに私の語ること

文藝春秋掲載版の村上春樹「猫を棄てる」を読んだときの感想です。


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ページを開くと、バットを持って微笑む村上少年と横でグローブをはめてしゃがむ父。

 これからどんなことが語られていくのかわからないけれど、とにかくこの写真だけで今から読む文章は正解だ、と思える。面影のある村上少年、やっぱり少し似ているお父さん。


 この文章を書き、発表に至った村上春樹の心情を若輩者ながら想像すると、とてもしんどい作業だったのではないかと苦しくなる。
自らのルーツ、一番血の濃い肉親、そしてそこには外すことのできない戦争というマターが加わっていることは確実だし、開けたくないけど開けなければならない蓋を持ち上げて、自身の書く文章という道具で、父という個と村上春樹自身の個に深く潜り肉薄していくという工程は、とてつもない力が必要だったと思う。こんな危険行為に耐えられたのは、村上春樹だからなのだろうか。


 実親のことを探る、掘っていくというのは私にとっては禁忌の感がある。両親の交わりを見るような、目を背けたい、知りたくないよそんなこと、という思いがまだまだ強い。
文中のことばをつかうなら、親のトラウマを継承するとか引き継ぎをするとか、集合的な何かに置き換えていくとか、今はまだ御免こうむりたい。

でもいつか私の親も私に引き継ぎを願う日がくるのだろうか。私も引き受けたいと思うのだろうか。そしてその思いは自覚できるものなのだろうか。それとも本能のように無意識に行おうとしてしまうものなのだろうか。


 今のところ親側にも私側にもそのような覚悟の気配は漂ってはいない。しかし、村上春樹が父の「トラウマ体験」を引き継いだ、と感じたり、集合的な何かに還元する意義を感じたのとは別の方法で、もうすでに引き継ぎ始めているのかもしれない。


 あのときこれを聞いたな、話したな、というポイント的な引き継ぎではなくとも、例えば10年かけて引き継ぎ、また私が10年かもっとかけて歴史のなかの集合的何かに置き換える作業をしていて、まさに今はその最中だってこともあり得る。

そしてその手続きが終わったときに「引き継ぎだったんだなぁ」と気付くのかもしれない。気付かないままに死ぬのかもしれない。




 村上春樹の父が亡くなったのは、1Q84のBOOK2発行とBOOK3発行の間ということになる。村上春樹はものすごく長い時間をかけて小説を練り上げる方ということだから、原稿の書かれた時期を細かく調べたり推測したりするのは主義者の方にお任せするとして、私はシンプルに2と3の間に村上春樹は父を看取ったと考えてみる。そしてBOOK3の一文を読み返してみる。



おれはもっとしっかり腰を据えて、父親に対面しなくてはならないのかもしれない、と天吾はあるとき思った。日帰りの見舞い程度では足りないのかもしれない。より深いコミットメントのようなものがそこには求められているのかもしれない。とくに具体的は根拠はないのだが、そんな気がした。(単行本54P)


 村上春樹自身の父とのコミットメントというものがBOOK3の最終稿の前になされたとして、結果としてBOOK3に落とし込まれて世に出たのだとしたら、これは読者としては奇跡と呼びたい。


 



「女の人生ってのはね、母を許す、許さないの長い旅なのさ」


 これは、桜庭一樹の「少女七竈と七人の可愛そうな大人」という小説の一文だ。
村上春樹の文章を読んでこの一文を思い出した。

 
 この文の意味するところは、単純に毒親や虐待親、性格の合わない親を許すということではなく、村上春樹がいうところの「引き継ぐ」ということかもな、と思い至る。生きて許して許されて死ぬ、これが降り続く雨で作られる歴史なのかもしれないと。



 スクリーンいっぱいにぼんやりとした揺れが映る。カメラが引くとそれが一粒の滴っだとわかる。さらに引くと隣にもその隣にも滴。もっと引くと滴は雨であり、雨が大きな空から広い地面へと降り続けている景色が映し出される。雄大なカメラワーク。

この雨降る広大な世界が歴史なのだ、とイメージしてみる。




「猫を棄てる」はこんなイメージを呼び起こしてくれた文章だった。 



親のこと、子のこと、戦争のこと。散文的な感想が浮かぶ読後感。8月にはまた読み返そう。




 因みに、私は親の人生の引き継ぎに対してやる気十分ではないのと同様に、私の人生を娘に解きほぐして欲しいとも今は思ってない。娘がとんでもない偉大な文章家やなにかの表現者になったとして、母である私のことを「控えめにいっても、仕事のできるタイプではなかったようだ。もっといってしまえば、国家公務員としての情熱はほとんど持ち合わせていなかったと断言してもいいのではないだろうか」なんて書かれたら化けて出る。ちょっとヤンチャだったころの自分を娘に冷静に分析されたら恥ずかしくて死ぬ(もう死んでるはずだけど)。
 




 「猫を棄てる」では引用以外で父の名前は出てこない。弁識も純一も四朗も出てくるけど、父の名前を村上春樹は書いていない。

 これに気付いたとき、涙は出そうで出なかった。

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