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黒い刀身に光を見た日【燭台切光忠・八丁念仏】

関東大震災で焼けた刀として有名なのが、徳川ミュージアム所蔵の『燭台切光忠』。刀剣乱舞ファンの中でも、その存在、史実ともに有名な刀です。

ということで、今回は前々から行ってみたかった徳川ミュージアムへと足を運びました。

刀 燭台切 光忠作

展示室に入ると、黒い刀と銀色に輝く刀が二口並んでいました。
その正体は、焼けた燭台切光忠とその再現刀。

写真左手に写っているのが、鎌倉時代に打たれた燭台切光忠。光忠は現在の岡山県で繁栄した長船派の祖とされる人物です。(ちなみに長船派の源流は古備前派)

燭台切光忠

名前の由来は、読んで字の如く「燭台を切った」から。それほどの切れ味だったということですね。

この刀は、織田信長→豊臣秀吉→伊達正宗という輝かしい来歴を持っています。その後、伊達家から水戸徳川家へ献上されて大切に保管されていたのですが、大正12年の関東大震災で被災。少し驚いたのですが、水戸徳川家に伝わる美術品は当時東京にあったのですね。水戸徳川侯爵家というものだから、てっきり水戸にいるものだと思っていました。水戸にあれば燭台切光忠も無事だったかもしれないですね。

関東大震災で焼けた刀身は、写真の通り真っ黒になってしまいました。茎には、火事の中で溶けたハバキがべたりと付着しています。

正直に言うと、戸惑いました。私はこれをどう見たらいいのだろう、と。

燭台切光忠を写真で見たことはありました。再現刀と並んでいる写真も。でも実際にそれを目の前にしたとき、心がこわばってしまうような感覚を覚えたんです。
焼けた刀身には、私が好きな刃文も肌の模様も何もかもがありません。まるで初めて刀を見たときのように、どこをどう見ればよいのか分からなくなってしまったのです。

それでもやはり、金色のハバキがこびりついた刀身は皮肉にも綺麗でした。

その金色は、今や「燭台切光忠といえばこれ!」というくらい最大のチャームポイントだと思うのですが、私はなんだかたまらない気持ちになってしまいました。かつては銀色に輝いていた時代があり、刀としての役目を全うしていたはずの刀。そして数多の武将に愛されたであろうこの刀が、火事の中で為す術も無く焼け焦げたのだと思うと、胸が痛くてたまらないのです。

ハバキが付着した刀身は痛々しくて、生々しくて、悲しくも寂しくもあり、でもとても美しい。
だからこそ戸惑ってしまいました。どんな気持ちでこの刀と向き合えばよいのかと。綺麗と思うけれど、それだけでは見れない。悲しいと思うけれど、それだけでも見れない。色んな感情が渦巻いて、胸の内がぐるぐるしました。

でも、この戸惑いこそ私が燭台切光忠に抱いた感情であって、それを綺麗な言葉に置き換える必要は無いのかもしれません。この刀は単純な言葉では表せないような感情を私に与えてくれたのだと、今はその事実をありのまま受け止めるのが一番良い気がします。
そんな気持ちにさせてくれる刀に出会えて良かった。写真で見たときはこのように思わなかったので、この目で見たときに初めて生まれる感情があるのだと知りました。となると、やはり刀剣遠征はやめられませんね……!


話を戻しまして、その燭台切と並んでいたのが2018年に完成した燭台切光忠の再現刀。

再現刀

こちら肌がとっても綺麗でした……。細かくて詰んでいる肌です。全体的にクセの無い刀で、すらりとした印象を受けました。
燭台切光忠もこんな風に輝いていた時代がきっとあったのでしょうね。焼けた刀身から在りし日の姿を想像するのは、私のような素人には難しいので、再現刀があるのは有り難いなと思います。実際の刀として燭台切光忠の再現をしてくださったことに感謝したいです。

八丁念仏

今年初めに刀剣乱舞に登場した、八丁念仏。こちらも燭台切と同じく焼け身となっています。

名前の由来はこんな逸話から。
『あるとき侍が僧を切りつけたところ、手応えがあったにも関わらず僧は念仏を唱えたまま歩いていた。その僧は八丁(870メートル)ほど歩いたところで真っ二つになり死んでしまった』
まさに「お前はもう、死んでいる」状態ですね。ひぃ。
(『八丁念仏団子刺し』と呼ばれることもありますが、これは別の刀の逸話が時代と共に一体化したものだとする見方もあります。)

徳川ミュージアムでは、この刀を古備前の助村作としています。詳しくはこちらをご参照ください。

この刀を見たとき、「すごい真っ直ぐだ!」と思いました。ハバキ元はぐいっと曲がっているのですが、時代的に真っ直ぐすぎる気が……。 もしかして火事で熱せられて反りが無くなってしまったのでしょうか。(坂本龍馬の愛刀・陸奥守吉行も火事で無反りになったそうなので)

姿は大きくて、鋒に向かって徐々に細くなっています。そんなところは平安らしいですね。

太刀 児手柏

もう一口、再現刀が作られた刀がありました。それが「太刀 児手柏(このてがしわ)」。


この再現刀の力強さを見てください……!正直、めちゃくちゃ好みの刀です。燭台切の再現刀と比べて見ると、それぞれがまったくタイプの異なる刀剣であることが分かりますね!刀剣って一つ一つ個性があって、本当に面白いな~!

刀の来歴はこちら。
細川幽斎
→細川興元(幽斎の次男)
→徳川家康(興元と忠興の和解仲介の御礼として献上したという説も)
→徳川頼房
→以降水戸徳川家伝来

日本史うろ覚えの私からすると、知っている名前が多くて助かります……!
それにしても、大体の名刀の来歴には徳川家が入っているのは必然なのでしょうけど、やはりすごいです。織田信長や豊臣秀吉にも通じることですが、トップの人間のもとに名刀が集まることを踏まえると、まさに刀は武士の権力の象徴と言えますね。

さて、こちらの児手柏で有名なのは「裏表で刃文が全く違う」ということ。表は乱刃、裏は直刃という珍しい刃文をしているらしいのですが、現在の展示では表面しか見ることができませんでした。残念……もったいない……(T_T) いつか両面見れる日が来るといいなぁ。

短刀 無銘 郷義弘

*撮影不可の刀剣のため写真無し*

こちらは大阪の陣で焼け、越前康継が再刃(焼け身の刀に再び焼き入れをして使えるようにすること)したものの、関東大震災で二度目の火災を被った短刀。
二度も被災してしまうなんて、なんて運命なのでしょうか……。溶けたハバキが刀身全体に付着しており、痛々しく見えてしまいます。

大阪の陣の後、家康の命により再刃を担当した越前康継という人物は、結城秀康(家康の次男)のお抱え刀工だったそうです。その腕前を評価され、家康から「康」の字を拝領したというすごい人物! 茎に葵紋を彫ることも許されています。
大阪の陣の後、康継は焼けた名刀を再刃したり、写しを制作するなどして活躍しました。泰継が再刃したという刀剣は『一期一振』『鯰尾藤四郎』など。一期一振なんて今や御物(天皇家に伝来した所蔵品)ですからね……すごいですよね……。

そんな越前康継が再刃を命じられたこの郷義弘もきっと素晴らしい刀だったのでしょう。再刃された姿も良いものだったに違いありません。なので、こうして焼け身になってしまったのを見ると胸が苦しくもありますが、とにかく残ってくれて良かったと思います。

最後に

展示されている刀剣のほとんどが焼け身というのは、私は初めての体験でした。初めはどう見ればいいのか困惑しましたが、被災刀は「見る」よりも「感じる」観賞の仕方がいいかもしれません。
現在にいたるまで誰の手を渡ってきたのか、なんの戦に帯刀されたのか、どんな逸話があるのか……。そういった過去を踏まえて被災刀を見ると、感じ方が全く変わってきますよね。
例え刀身の輝きが失われたとしても、語り継がれてきた過去は失われることはありません。刀として観賞できなくても、それは刀の価値が失われたというわけではないと思うんです。それぞれの刀には歴史がある。私たち人間と同じように、一口一口に辿ってきた道がある。美しい姿が失われたのはとても惜しいことですが、それでも失われない過去がある。私はそれを感じることが、被災刀を『鑑賞』するということではないかと思います。
そして、そういったことを感じさせてくれることこそ、被災刀が持つ「輝き」であり、焼けてもなおそこに在る「魂」なのではないでしょうか。

折れずに残ってくれたこと、それを見つけて保護してくれた人達がいたこと、そして現代で私の目の前に現われてくれたこと。それらが全て奇跡のように繋がっていて、あぁ今回も素敵な出会いだったなと、そう思いました。


おまけ

この日は大手門へも行きました。


大きくて立派な門……!門を潜った先の通りもすごく素敵な雰囲気で良かったです。

瓦で模様が作られた壁面
可愛い!


また、徳川ミュージアムでは水戸徳川家について色々学ぶ事が出来てすごく楽しかったです。私は大河ドラマ「青天を衝け」で得た知識しか無かったので勉強になりました! 特に家系図が面白くて、母と一緒に長々と見ていました(^^)

あ!最後に、茨城交通バスは交通系ICカードは使えないので要注意です! 水戸駅からバスで行こうとしている人は、そこだけ気をつけてください。私は知らなかったので、母とめちゃくちゃ焦りました……。そこだけでも参考にしてください。笑 

それではエンディングに、徳川ミュージアムで撮った刀剣男士の写真を添えておきます…! 

徳ミュさんの燭台切光忠と、うちの土方組でパシャリ
刀剣男士・燭台切光忠のパネル
謎の安心感がありますね(笑)
刀剣男士・八丁念仏のパネル
すえひろがりピースが可愛いね



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