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母を看取った日

前回の投稿が6月26日。
あっという間に2週間近く経とうとしている。
あれから2日後の6月28日に母を看取った。
その前日の27日に病院から電話があり、その夜は付き添うことにした。
意識はあるのかないのかわからないけどたまに手や頭を動かす。
経皮的動脈血酸素飽和度は90%前後で呼吸は前日よりもしんどそうな様子で身体の力を使い果たそうとしているのをただ見守るしかなかった。
40代後半くらいから高血圧だった母の最高血圧が70mmHg台、最低血圧が20mmHg台にまで低下していた。
手首から脈は感じられなくて手首全体を包むようにすると奥の方で微かに脈を打っていた。
手はとても冷たい。
母の肌に触れたのはもういつ以来かわからない。
小学生以来か、中学生の時に手をあげられたか掴み合いになった時以来かもしれない。
自分よりもはるかに小さい手。
左手には指輪の跡が残っている。
爪を見るとたしかに懐かしい母の手だと思った。
私とは骨格も肌の質感も爪の形も全然違う。
一つ一つ確かめた。

母がいるのは10人くらいの高齢者ばかりがいる部屋だ。
何かの機材が虫の音のような音を発している。
隣のベッドのおばあさんは認知症だろうか。
ずっと一人で話し続けている。
看護師さんがケアをする時間がきた。
そのおばあさんは前日に手術をしたそうだが、点滴かなにかの針を外してしまったらしく看護師さんに針を取らないでと諭されるが反発ばかりする。
高齢になると子ども返りのようなことが起こることがあるとは聞いていたけど、本当に駄々をこねる子どものようだった。
看護師さんが諭しながら再度針を入れる処置をしていたら大げさに「痛い!腕を掴むな!」とより激しく反発する。
処置は無事に終わり看護師さんたちが部屋を出たあともおばあさんはずっと怒っていた。
母もまさか最期を迎えようとしている時におばあさんの「痛い!腕を掴むな!」の連呼を聞き続けるとは思ってなかっただろう(笑)
現実はドラマのようにきれいな最期とはいかない。

19時30分頃には呼吸のペースが少し落ちて身体の動きはほぼなくなる。
呼吸のために顎だけは上下している。
血圧計がずれたのか数値を示さなくなった。
手で確認するとまだ微かに脈は打っている。
他には特に変化はない。

今はコロナウイルスの感染予防のため、基本的に面会禁止だ。
ただ、いつ急変して息を引き取るかわからない母の状態から特別にその日の夜は宿泊を許可してくれた。
たまにモニターに表示される母の血圧や呼吸などの数値をカーテンの隙間から確認する。
いつでもどこででも割と眠れる方なので翌日身体が楽になるくらいには眠った。
隣のおばあさんは一晩中、おばあさんにしかわからない誰かに腕を掴まれて怒り続けていた。
認知症の高齢者と暮らしたり世話をする大変さを思い知った夜だった。

翌朝、母の状態はあまり変わらず。
看護師さんが夜中に何度か腕を動かしていたことを教えてくれた。
動きが少なくなったことで酸素マスクがしっかりつけられているからか経皮的動脈血酸素飽和度は昨日よりも数値は良くなっていて安定していた。
朝ごはんの時間になって、母はもちろん食べられる状態ではないけど隣のおばあさんが看護師さんにご飯を食べさせてもらっている時の会話を聞いていた。
前日、処置をした看護師さんが夜勤明けで対応していた。
いつもはご飯をあまり食べないことも多いようだけど、この日はいつもより食べたらしい。
朝方まで不機嫌だったおばあさんも「美味しい!」と嬉しそうだった。
看護師さんも「美味しいって言ってくれて私も嬉しい!」といったことを返す。
このやりとりを聞いていて温かい気持ちになった。
仕事と割り切ってやる場面もあるとは思うけどこの看護師さんの人間性を垣間見れた気がして何だか嬉しかった。
とても話しやすい方で私に対しても何かと良くしてくれた。

母の状態はそこまで大きな変化はないので、午前のうちに一度家に帰り昼頃にまた戻ることにした。
家でシャワーを浴びたり、母の家から荷物を運んだりした。
母の家の近くに戻ったタイミングで病院から電話が鳴る。
急に呼吸数が大幅に落ちて呼吸が止まりそうになっているとのことだった。
病院に着くと今朝までとは変わって、いよいよ身体が最期の力を使い果たそうとしていた。
看護師さんが「娘さんすぐに来るよ」と声をかけてくださったら大きく息を吸ったそうだ。
「ありがとね。」と耳元で言った。
私が病院に着いてからは最高血圧が20mmHg台だったけど、一時的に30mmHg台まで上がったのは反応だったのだろうか。
その後は少しずつ血圧も呼吸数も落ちて、心拍も呼吸も止まった。
時間としては病院に着いて15〜20分くらいのことだった。
これまでずっとこの瞬間のことを考えてきたし、この時が必ず来ることをわかっていたからか涙は出なかった。
5月末からの約1ヶ月間、ろうそくが少しずつ短くなっていくようだった。
理想的な死とはどんなものかわからないけど、枯れていくように、身体のエネルギーを使い果たすかのような最期の迎え方だった。
もうこれで痛みも苦しみもない。

私は病院をあとにして妹と葬儀社に連絡してしばらく待つ必要があった。
あと母と最近まで交友があったご友人にも連絡した。
電話の向こうで泣いているのがわかった時、少し言葉が詰まった。
この時、初めて感情が少し波打った。

母が最期に過ごした街はゴテゴテの歓楽街がある街。
街の雰囲気は今しがた親を看取った人間にも容赦はない。
どう過ごして良いのかわからなかったのでとりあえずカフェに入った。
親を看取った直後でも食欲が落ちるということもなくて、コーヒーとケーキを注文した。
この街も自分もどっちもどっちかとひとりで少し笑いそうになった。
父はとうに亡くなっていて、これで両親ともにいなくなってしまったということをぼんやり考えながらコーヒーとケーキを味わった。
母の人生の幕を閉じたあとの時間を不思議なくらい静かに淡々と過ごしていた。

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