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わからない不安 観れていなかった自分

今日の東京は雨、冬のような寒さだった。

今日はPTAの仕事と、学校の説明会もあったから
娘の中学校と自宅をいったりきたり。

そんな合間にこれまでの手帳をみながら
この1年は少しずつ、でも確実に
進んでこれたなぁと振り返ってた。


それまでのわたしといったら
動きたいように動けなくて
ずいぶん長い期間、同じところで
もがいていたのですよね。



あのころは、

進みたいのに進めない、
なぜ進めないのかもわからなくて
わからないから出口がみえなくて、
これがいつまで続くのかわからなくて

たくさん自分に向き合ってきたつもりなのに
それでも「わからない」ってことが、

つらかったなぁ。

ついつい陥ってしまいがちだったパターン

そんなころ、ついつい陥りがちだったパターンがいくつかあるんだけど、

それは例えばこんな感じだ↓


① ついつい誰か(何か)のせいにしたくなる現象

親のせい、育った環境のせいだってことにしては、
だからわたしはこうなんじゃない?と解決にならない思考に陥る。

そして他責にしてるってこともわかってるから
さらに自分も責める。


② そんな自分に名前をつけたくなる現象
(カテゴライズして納得しようとする現象)

「これだけ考えてきたのに進めないとは、
なにか理由があるんじゃないか?」とネットなどで検索。
わたしってこれじゃない?とあてはめたくなる

(たとえばそうだな、機能不全家族育ち、みたいに)

⇒なるほどねーと納得感があったとしても
わたしの場合はそこでぐるぐるして前に進めず


③ それでもなんとか進んでみようとする。

いいかげんなんとかするぞ!と意を決し、
なんとか踏み出してみる

でも苦しくなり、続けられなくなる
(ブレーキを踏みながらアクセル踏むみたいな
 感じだったんだろうな)
 結果、「続けられない自分」をまた責める。

こんな感じをいったりきたりしながら
もがいていたなぁって振り返ってる。

そんなわたしが前に進みやすくなったのは

これまで観れていなかった自分に出会い
とじこめてきていた感情に気づいたから

だった。


わたし、それまで、
「進めない原因」を特定したくて、
これがいらないものでした!ってポイってできたら
進めるんだって思って探してたんだけど、


結局のところ、
わたしに必要だったのは、
いらないものを見つけて外すことではなくて

これまで観ることができていなかった「自分」を”受け入れること”

だったんですよね。

傷つかないように
自分を守るために
いつからか鍵をかけ、蓋をしてきたその奥に、
とじこめていた感情があった。

それに気づいて

自分を明らかにしていくことで
自然と「だいじょうぶ」って思えるようになった。

観れていないことでうまれていた
矛盾のかたまりが解けて、

その矛盾が奪ってきていた
自分への信頼を少しずつ少しずつ
取り戻せてきている気がしてる。


自分に対しても

パートナーや恋人、友人に対してと同じで、

わからないと不安だし、
わからないと苦しくて、
腹立たしく感じたりもするけれど

どんな人かがわかると
応援しやすくなる

そっかそっかと寄り添い、
だいじょうぶだよ、って言ってあげられる。


やりたいこと、
進みたい方向に進みたいってときには
自分で自分を応援する(できる)ことで
がんばれるものだけど、


自分を応援するためにも
自分のことをわかっていないとね。



だから

思うように動けない時はやっぱり、
我慢強く あきらめずに
自分に向き合うしかないんだろうな。


これからもきっとそうだ。

これから先、また、
なぜだか進みづらいと感じることがあるのかもしれない。

そしたら探そう、まだ出会っていない自分に。

行き詰ってしまったら、
信頼できる人の力を借りたりしながら、

でも依存せず、こたえを求めず


自分に向き合っていこう。

こたえは自分の中にしかないのだから

***

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