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学習塾の存在意義ってなに。

夏休みが近くなると高校3年生とか中学3年生とか,そう,入学試験が差し迫ってきている層からの問い合わせが増えます。

うちは「コーチング型学習塾」をうたっているので,勉強は基本教えていませんから,「わからないところがあれば,自力で克服する」ことをいっしょに考えたりします。


多くの場合「参考書」や「google先生」あたりで満足いく解説を見つけたりして克服します。あるいは「学校の先生に訊いてみる」とか。


そんなで済むなら塾なんかいらないじゃんと思うかもしれませんが,案外,みんな「学校の先生」という最強のリソースを使っていないのですよ。学校の先生は「教えるプロフェッショナル」です。まして教科の専門ですから,教えるだけじゃなくて,教え方だって僕が教えるよりも上手に決まってますし。


学校の先生は,みんな一様に相応の熱意でもって子どもたちと接しているので,普段自分の所に来ない生徒が,「先生,わからないところがあるから教えて下さい」なんて職員室まで来てくれたら,もう大喜びで教えてくれます。毎日つけ回して,どんどん訊いたらいいんです(先生方仕事増やしてごめんなさい)。

もちろん,ひとりで学ぶにはある程度の前提が必要なので,ゼロベースで教えることはあります(遡ってわかるところから自走するにしても限度がありますからちょっとブーストします)。



僕が焦点をあてているのは,「わからないときにどうするのか」であって解決のためのリソースはほとんどの場合子どもたちはすでに持っています。持っていても使っていないか気が付いていないだけなのです。


こういう場合は,何をどうやって調べたら良いか。
あの先生に訊いてみたら,プラスアルファの話が聞けるかもしれない。

なんて,いろんな抽斗を持っていて欲しいと思うのです。
そしてその抽斗は,今だけでなくて,将来にわたって有効に働き続けるはずです。



もっというとそもそも学校で一度しっかりとした解説を受けているはずのことを,学習塾で補完的に再度教えることにそれほどのメリットがないんじゃないのかなとも思っています。


学校で教えてもらったのにわからなかった。

のなら,塾で教えてもらってもわからない,のではないでしょうか。


これがなぜ塾で教えてもらったらわかった!になることがあるかというと,たぶん個別にわからないポイントを補完してもらえるからなのだろうなぁとは思うのですが,そんなら授業中にしっかりと先生の授業を受けて,その後わからなかったらその場で先生に訊いたらいいんじゃないのかなと思うのです。

まして一斉授業形式の学習塾だと同じ授業2回受けるだけなんじゃないのかなと思ったりします。学校の授業でわからなくて,塾で受けたらわかるとすれば「学校の授業をしっかり受けてない」か「塾の授業の方がわかりやすかった」かってことになります。あるいは同じ内容を2回聞くことで,ようやく腹落ちすることもあるかもしれません。



塾の授業の方がもしも本当にわかりやすい,となれば学校の先生方は授業についてもう少し考える必要はあるでしょう。

しかしもうひとつ考えて欲しいのは,その「わからない」をそのまま塾という言わば外部に持ち込むことの安易さについてです。

同様に同じ内容を2度聞けることを前提とするなら,1度目の学校の授業をどのような気持ちで臨んでいるのだろうかということです。

人生ではチャンスはそんなにたくさん来ません。
一度チャンスを逃しても,塾にいけば同じチャンスをやり直せるなんてことはありませんから,そのたった一度を全霊でもって捉えなくては,永劫失うことになります。


塾や家庭教師に依存した子どもたちは,自力で問題を解決していく子どもたちにいずれ対等に話ができなくなるのではないかと感じています。

参考書どころか,解答集みたいなものを常に持っていて,切り札というわけでもなく常時それを使うようになってしまったらもう自力が育たないのですから。



塾ではできるんだけど,試験になるとできない。
という問題に直面したことがある塾講師のみなさんにはわかると思いますが,本当に塾でできたことが,試験でできないなんてことあるんだろうか?ということの答えがたぶんここにあります。

要するに「教えすぎ」なのではないでしょうか。


手取り足取り,先回りして,誘導して,正答にたどりついているだけでは,塾の先生がそばにいない試験でできないのはあたりまえです。「できた気になっているだけ」というヤツですね。

「できないことを,できるようにする」のが勉強ですから,先生がみていないとできないのでは勉強したことになりません。先生はいつでもそばにいてあげることができないのだから,すべてに手を貸してはいけません。

「わからないを,わかるにする」ことの方が「できないを,できるにする」よりもずっと簡単だし,教えている先生も自分の存在意義を確認しやすいので,つい教えてしまいがちですが,コーチング学習塾ではそれを簡単には許しません。

どこがわからなくて,どこを教えて欲しいのか。
なにに困っていて,なにに困っていないのか。
自分で考える,考え続けるのが大切なんですね。



たくさんのスクール系ビジネスの中でも,学校の勉強のように手取り足取り解法を教えてもらえるコンテンツってあんまりないような気がします。

学校の勉強じゃなくって,もっと別の新しい知識や技術を「教えてもらう」スクールは存在価値がわかりやすいですよね。他では教えてもらえないのですから,教えてもらったらいい。

書道とか料理教室とか,水泳とか体操とか。
ただ,実技というか技芸となれば,教えてもらうというよりは,傍らでアドバイスをもらいながら訓練を積む,言わばコーチングメインなのですが。


一方で,たとえば試験問題の解き方は,アドバイスでもコーチングでもなくて,答えを見せてあげているだけだし,同種の問題を解けるようにその共通部分を教えているのだとすれば,これはもう学校でやってるのと同じです。


それが学習塾の存在意義なのでしょうか。

え。もしや学校の補完ってそういう意味?
学校での授業時間が足らないから補うだけなら,一様に受けられるような施策が必要なんじゃ!?

本来必要な教育を学校では提供しきれないから,申し訳ないけど残りはお金があるひとだけ,塾とかで補完して十分な教育を受けてね,言っているならそれは大きな問題ですね。

もしほんとうにそうでも「そうです」とは言わないでしょうけど――

なんか切ない。




で,それが気に入らないんなら,じゃぁ塾ってなんのためにあるのか?という疑問に突き当たります

そういう学校の中で解決できないところを,教える準プロとも言える学習塾で解決して欲しいんじゃないの?と思うのも無理はありません。

そうなんです。そりゃそうだよねと思うから僕にも迷いはあります。



僕がモヤモヤし続けているのは,学習塾や家庭教師は,あたかも「学校の先生方」よりもわかりやすく教え,学校で理解できなかったことや解けなかった問題を丁寧に教えてくれる存在だということが,子どもたちの安易な逃げ道になっているとしたら嫌だなということです。

つまり,学校の授業でわからなくってもまぁいいや。塾で聞いたらわかるまで丁寧に手取り足取り教えてくれるんだから,ってならないかな,という心配です。

学校の先生にその場で訊くとか,授業を集中してしっかりと聞くとか,自分であーでもないこーでもないと考え続けるとか,そういう根本的な努力をスキップして,当座を適当にやり過ごして,聞きやすく,わかりやすく,優しくて,自分を傷つけることがない,いつでも逃げ込める場所に学習塾がなってしまっているとすれば,目の前のその問題が解けることよりも,ずっと大事なチカラを失っていることと同義なんじゃないかなーと言葉にしづらいモヤモヤが僕の胸を覆うのです。





人生には学習塾はありませんから,依り易い何かを持っていることは大事かもしれませんが,もしもそれに依存することが「アタリマエ」になってしまったら自立することは容易ではないでしょう。

だとすればひとは自分で立ち上がって,自分で問題を解決するチカラを得るほうがいい。学習塾が活きる力を無意識に奪う場であって欲しくないと思います。



社会にはひとりでは解決できない問題がたくさん転がっています。自立した個と個でなくてはこれらの問題は解決できません。何かに依存しなくては問題が解決できない個がいくら集まっても,自立していない個がいくら集まってもせいぜい協力止まりで,イノベーションは起きないのです。

願わくば学習塾がイノベーションを起こすことができる子どもたちを育てるための一助になれることを。



サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。