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ついに白河の関を越えた!107年越しの悲願成就

白河の関。
みちのくへの玄関口、東北の最南端にして栃木県那須塩原市の北隣、福島県白河市にそれはある。

幕末から明治にかけて、会津藩や仙台藩など旧幕府側についた諸藩は、戊辰戦争で敗北を喫することとなり、廃藩置県後も薩長から派遣されてきた人物に統治されることとなる。

「白河以北一山百文」などとも言われ、白河の関より北、つまり東北には価値がないかのような扱いを受けてきた。


宮城県仙台市で、傾きかけた新聞社を立て直してもらえないかと頼まれた実業家、一力健治郎は、リニューアルに際して、宮城だけでなく東北全体の発展という願いを込めて紙名を「河北新報」と改題する。明治30年のことである。

現在そこには、私の出身地である福島、宮城、山形、岩手、秋田、青森のいわゆる東北6県がある。十和田八幡平国立公園や三陸復興国立公園、磐梯朝日国立公園など、雄大な自然景観が広がる。
2011年の東日本大震災以降、全国メディアに報道されることも多くなり「被災地」として見知っている人も多いだろう。


その白河の関を越えたもの、それは冒頭の写真にある全国高等学校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園大会の「深紅の大優勝旗」である。
宮城県の仙台育英高校が、104回大会にして東北勢として初めて優勝を飾った。
1915(大正4)年の第1回大会から107年目にようやく達成された偉業だった。

実は第1回大会で、東北勢は準優勝を飾っている。秋田中学(旧制)である。その後、夏の甲子園では9回決勝に進出しているが、いずれも退けられ、10度目にしてようやく達成された悲願である。
今回優勝した仙台育英に限ってみても1989年、2015年に次ぐ3度目の正直だ。


積雪があるため冬場の練習ができない東北勢は、弱かったのだろうか?
いやいやそんなことはない。歴史を紐解けば、ここまで数多の死闘・名勝負を繰り広げてきたのである。

1969年の松山商業VS三沢(青森)の決勝では、史上初の延長18回引き分け(しかも0対0)再試合となり、1人で2試合を投げ抜いた太田幸司投手は、敗れはしたものの国民的ヒーローとなりテレビCMなどにも出演した。


1971年の桐蔭学園VS磐城(福島)の決勝も、33イニング無失点を続けて小さな大投手と呼ばれたの田村隆寿投手(身長165センチ)は、連投がたたり、たった1球の失投で0対1と敗れ優勝旗を逃した。


1989年には、今回初優勝した仙台育英が、決勝で帝京(東京)に0対2と敗れている。


人は都道府県代表の高校野球に何かを託してきた


東北勢が足踏みを続ける中、90年代に着実に力を付けてきた県がある。
沖縄県である。

沖縄は、太平洋戦争下日本で唯一の地上戦を経験し、20万人以上の人々が亡くなった。軍部の判断が早ければ沖縄戦は避けられたし、広島・長崎への原爆投下もなかった。
沖縄の人々には、本土防衛のための捨て石にされたとの思いが残った。

戦後は、アメリカ軍の統治下に入り、通貨はドルになった。
本土に渡れば、部屋を借りるにも「沖縄・朝鮮お断り」などという差別を受け、仕事を探すにも口にできない苦労があったという。

1972年(大阪万博の時はまだ米軍統治下だった)にようやく沖縄返還協定が発効して日本に復帰したものの、沖縄の人たちが求めた「本土並み返還」とは程遠く、沖縄県内に多くの米軍基地が残されたままの復帰となった。

朝鮮戦争の時も、ベトナム戦争の時も、沖縄の基地から戦闘機が飛び立った。
特にベトナム戦争では、米軍の戦況が芳しくない中で、酒に酔った米兵による暴行事件や飲酒運転による交通事故が相次いだ。
墜落事故があっても、日本の警察は手出しもできない不平等さは、沖縄の人々を大いに失望させただけでなく、怒りにつながっていった。


そんな中、沖縄県の代表が全国大会で勝ち上がる姿は、県民を大いに勇気づけた。

「沖縄の高校生も本土の高校生に伍して行ける」

トーナメントを勝ち上がる高校球児は、「本土並み」の象徴となったのだ。

差別されながらも職を求めて大阪などに移住した沖縄出身者にとって、沖縄の高校が甲子園にやってくることは特別なことだったという。
出身者たちは、故郷からやって来た球児たちを応援するため私設応援団を結成して、甲子園球場で指笛を鳴らした。ブラスバンドも組織した。

県民の夢を乗せて、ついに沖縄のチームが決勝に進出する。
1990年と91年、2年連続で沖縄水産が決勝に進出するも準優勝に終わる。

時代は流れる。
1998年は、横浜高校の4番打者にしてエースの松坂大輔投手が、決勝の京都成章戦で、ノーヒットノーランで優勝を決めるという離れ技をやってのけ、松坂旋風が吹き荒れた年として記憶している方も多いだろう。しかも春夏連覇という圧倒的な強さだった。

翌1999年の春の選抜高校野球で、ついに沖縄県勢が優勝旗を手にする。沖縄尚学高校である。
沖縄の人たちの「本土に伍して」という気持ちが実り、沖縄県民の悲願が達成された瞬間である。同校は2008年の選抜大会でも優勝旗を沖縄に持ち帰った。

夏の甲子園では、2010年の興南まで待たなければならなかったが、この年の興南高校は春夏連覇を成し遂げている。松坂大輔率いる横浜同様、まごう事なき強豪チームの証である。本土の高校に引けを取る要素はどこにもなかった。
キャプテンは、優勝インタビューで
「この優勝は沖縄県民全員で勝ち取ったものです」
と語っている。他県のチームであれば、こうは言わないだろう。しかし、沖縄県民は、この受け答えに大きく頷いたに違いない。

そして帰りの機内では、機長から
「真紅の大優勝旗がただいまこの瞬間、初めて本州・九州を離れ、沖縄に向かうため南の海を渡りました」
とアナウンスがあったという。沖縄の人々の心の機微を捉えた名アナウンスであった。機内は大きな拍手に包まれたという。
那覇空港には5,000人の県民が待ち受けていた。


一方で、東北勢はどうか。
2003年の夏、東北高校(宮城)が2年生エースのダルビッシュ有を擁しながら、決勝で木内監督率いる常総学院に2対4で敗れている。またしても、優勝旗が白河の関を越えることはなかった。後の大リーガー、ダルビッシュをもってしても成し遂げられない優勝。東北の人たちは、まだ待たなくてはならなかった。



他方、東北のさらに北に位置する北海道では、5年連続で甲子園出場を果たす強豪チームが育っていた。駒大苫小牧である。

2004年に決勝に進出すると斉美(愛媛)を13対10と下して、優勝旗を初めて北の大地に持ち帰った。

この時の凱旋帰郷便はANAだった。乗務したキャビンアテンダントは、

「この飛行機はただいま津軽海峡の上空を通過しています。深紅の大優勝旗も皆様と共に津軽海峡を越え、まもなく北海道の空域へと入ります」

とアナウンスしたという。
駒大苫小牧ナインは、静かに自席で喜びを噛み締め、周囲の客席から自然と拍手がわき起こった、と報道されていた。
新千歳空港には1,700人のファンが出迎えたという。


優勝旗は、白河の関を通ることなく、空路津軽海峡を飛び越えていったのだった。
東北勢の足踏みはまだ続くことになる。

翌2005年にも、2年生だった田中将大が決勝マウンドに立ち、5対3と京都外大西(京都)を破り連覇を達成する。
その翌年、エースとなった田中将大は3連覇をかけて再び甲子園に舞い戻った。

そして、決勝で球史に残る延長15回引き分け再試合という名勝負を繰り広げることになる。
相手は古豪早稲田実業(東京)。
投げ合った相手エースは、ハンカチ王子と呼ばれた斎藤佑樹である。
両チームとも満塁のチャンスを掴みながら、得点に繋げられず再試合に。
再試合での駒大苫小牧最後のバッターは田中将大だった。
ハンカチ王子斎藤佑樹が、田中を三振に討ち取り駒大苫小牧の3連覇を阻止し、優勝をさらっていった。


この決勝戦をテレビ観戦していて、ラグビーではなくプロ野球選手を目指すことを決意したのが、現日本ハムの清宮幸太郎である。
幸太郎の父は、早稲田大学ラグビー部でキャプテンを務め、同大監督としても大学選手権で3度の優勝を重ねた清宮克幸である。5年の在任期間中、関東大学対抗戦で5年連続全勝優勝という前代未聞の強さを誇った。

北海道の高校で甲子園で活躍した田中将大はプロ入りし、東日本大震災後の2013年シーズン、東北楽天ゴールデンイーグルスで、24勝0敗1Sという脅威的な活躍をみせ、MVPとなる。鬼神の如き活躍とはこの事で、震災で疲弊していた東北の人々に大きな希望と喜びを与えた。そしてメジャーリーグへと羽ばたいて行った。


さあ、東北勢の話に戻ろう。

2018年の記念すべき100回大会も東北勢が花と散った大会だった。

破竹の勢いで決勝まで駆け上った金足農業(秋田)だったが、1人で投げ抜いてきた吉田輝星投手に疲れが見え、決勝では2 対13と大阪桐蔭の前に大差で敗れた。


東北勢は、春の選抜でも3回決勝を戦い3回とも準優勝に終わっている。春夏合わせると、山形県以外の東北5県の代表が入れ替わり立ち替わり挑んでは敗れてきた。

東北勢は、勢いに乗って勝ち上がるのだが、たった1人で投げ抜いて力尽きて負けてしまうというパターンが多い。
限られた人材でやりくりしているチーム事情が垣間見える。


今年、初優勝した仙台育英は、その辺を意識して継投ができる投手陣を養成していた。

仙台育英の選手たちは、東京で東北新幹線に乗り換え帰路についた。
福島県に入り白河の関を通過する時、車内で記念撮影をしたそうだ。
彼らも、初の白河の関越えを意識していたようだ。
新幹線でのアナウンスは、なかったと新聞記事は伝えている。

宮城県のテレビ局は、仙台から白河までヘリを飛ばし、新幹線が白河を通過するのを中継した。

今大会の準決勝は、仙台育英(宮城)対聖光学院(福島)という東北勢同士の対決となった。どちらが勝っても東北勢が決勝を戦う100回大会以来のチャンス到来となる。
18対4で決勝に進んだ仙台育英の応援団は、決勝戦で、聖光学院が応援歌としていたGReeeeNのキセキを演奏し福島県民の思いを代弁してくれた。
宮城県のためだけではない、東北勢として初の優勝を手繰り寄せるのだという歴史を背負う覚悟を見せてくれた。


優勝監督インタビューで、マイクを向けられた仙台育英の須江航監督は開口一番「宮城のみなさん、東北のみなさん、おめでうございます」
と述べた。そして
「100年開かなかった扉が開いた」
と、歴史的偉業を達成した喜びを語った。
特に、今年の3年生は中3の卒業式も出来てない中、高校に進学してきて、大会中止や練習の禁止など様々な困難に見舞われた。そんな高校生事情を
「青春って密なので」
という言葉に集約してみせた。流行語大賞ノミネートも囁かれる時代の空気を見事に切り取った名言だ。
最後には、宮城だけでも、東北だけでもなく
「全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います」
とインタビューを締めくくった。

部活ができずに苦しんでいた高3の娘がいる私にも、この言葉は染みた。

福島市の中学校で野球部に所属していた私にとっても、今年の高校野球は、積年の宿願を成就する夏となった。

なんか、肩の荷が降りた気がする。


大リーグ、ロサンゼルス・エンゼルスで、ベーブルース以来2桁ホームランと2桁勝利を挙げた大谷翔平も、同じくメジャーリーガーの菊池雄星も、160キロを越すスピードボールで完全試合を達成した佐々木朗希も東北(岩手)出身の選手である。


さて、白河以北の山の値段は、いかほどまで上がったのだろうか。

東北の発展を祈願した一力健治郎の願いは、どこまで達成できたのであろうか。



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