「あなたらしさ」から逃げる(途中)

■概要
・『私的な私』と『公的な私』の存在
・分人的思考による様々な私が作る私像

導入:あなたらしさという言葉が嫌いな理由(ワケ)

「あなたらしさを見つけなさい」
という言葉が好きではない。
私らしさとは一体なんであろうか。
そう考えると、どこまで行っても見つからないのである。

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私が自分自身について悩めば悩むほど、訳が分からなくなってくるのである。
図はその状況を簡易的に示したものである。「今」悩んでいるのも私はそこに存在するが、悩むという行為は過去の姿を想像することにあり、過去を経験した「想像する私」とその経験をした「過去の私」は同一ではない。また、この悩みを経験したことによる「未来の私」=「今の私」は「過去の私」とも「想像する私」とも別の存在だと思う。
私の現在の結論としては「わたしらしさ」とは常に変化しているのである。
動的平衡という概念が近いのかもしれない。
ここで一つ、疑問が残る私らしさを変化させるものはなにか?ということだ。これはなかなか厄介そうな問題である。

『私』はいくつかあるのかもしれない

私らしさを変化させるものを考える前に「わたし」について整理したいと思う。「わたし」とはなにか。広辞苑を調べると、、、

わたくし【私】
[一]〔名〕
①公に対し、自分一身に関する事柄。うちうちの事柄。源氏物語桐壺「―にも心のどかにまかで給へ」。金槐集「旅を行きしあとの宿守おのおのに―あれや今朝はいまだ来ぬ」
②表ざたにしない事。ひそか。内密。秘密。「―に医業を為す罪」
③自分だけの利益や都合を考えること。ほしいままなこと。自分勝手。楽訓(貝原益軒)「わが身に―して人に情なく」。「天下を―する」「どの人にも―なく接する」
④「私商い」「私仕事」の略。洒落本、浪花今八卦「綿初穂の―、新麦のぬけものが銭と化けして」。すい言葉廓流行「鍛冶屋の―で、たたき出してぢや」
[二]〔代〕
話し手自身を指す語。現代語としては、目上の人に対して、また改まった物言いをするのに使う。狂言、鹿狩「―のためには一の旦那でござる」。「―が山田です」「その件は―から申し上げます」

なるほど。「わたくし」とは、第一義的には公に対する言葉として自分一身に関する事柄という説明である。
ここで、「あなたらしさ」という言葉に一種の矛盾を感じる。
私が私自身に思う「わたしらしさ」と言うのは、違和感はない。しかし、私自身でない他者が私に対して「あなたらしさ」ということは、その対象は私的な私ではなく、公的な私を表現している。そうなると、公的な私とは何か?というものについて考える必要がある。
私的な私と公的な私、この領域はどのようにして区別するのであろうか。
日本語における私の曖昧さについては安永の指摘を引用してみる。

「一人称である<ワタクシ>が、同時に私的領域を意味する<私>とまったく同じ言葉で表現されるということは、世界にその例をみない。さらに、わたしたち日本人にとっては、<個人的>という言葉は、<私的>という言葉とほとんど同義てある。このことは単に言葉の上のことだけではない。言葉は、一般に、言葉を使う表現主体の意識と行動の表現でもあれば、逆にそれらを制約する。事実日本においては、社会的行為の主体である<ワタクシ>と,集団ないし組織の単位である個人と、公的領域に対置される<私>とは、等置されるか、それとも完全に癒着している」

この文章を読む限りでは明確な区切りはない。また、日本語独自の問題。すなわち、日本人独自の問題であるということが言えるのではないだろうか。
であれば、「個人的」=「私的」の個人とは何なのか知る必要がある。

「個人」という考え方は最近持ち込まれた。

最近と言う言葉は語弊があるかもしれないが、日本の長い歴史の中ではじめに「個人」という考え方が現れるのは親鸞などが居た時期だが我々の使う「個人」は恐らく明治期以降のものだという。ここで仏教学者の安冨信哉の分析が面白いので引用したいと思う(※ここから先は思考中です)

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