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推しは本だから好きに読めばいい話


 これを書き始めた時はフランス法の期末レポートが迫っていた。相変わらず他の書くべき何かがある時に限って様々余計な考えが浮かぶのは、手を動かして文字を書き続けるという動作自体が無意識レベルで脳の回転を早くしているからかもしれない。

 すっかり資本主義と未知の菌が蔓延し、富めるものはさらに富み持たないものはさらに搾取され、平等に感染の危機に晒される激ヤバの諸行無常の世の中で、家の中で推しを応援するとは何とも寝惚けた平和な行為だろうと思う。我々は尻から椅子に根が生えた木の如く推しのためなら100年でもステイホーム出来る。オタクの100年は3ヶ月くらいのことである。

 まあしかしだ。寝るよりも非生産で3秒でも理性を働かせればおよそやらない方が豊かな(経済学的に)人生を獲得できると思い立つであろう永遠の夢遊病のようなその行為でさえ、煩悩と共に悩みが完全にゼロでないことは、自我の目覚めからオ・タクであったこれを読んで下さるような方々は実感があるのでは無いだろうか。というか、他人を対象としている時点で思った通りに行かないことは当然の摂理であるし、大体デカルトを見れば分かる事だが一人で居たって「神」を想定して悩み始めるのが人即ちコギト・エルゴ・スムなのである。何のためのクソデカ大脳かという事だ。それは、断言するが暇つぶしだ。ちなみに心理学の先生は子育ては80年の人生の最高の暇つぶしなのだと語っていた。究極、食われることのない食物連鎖の最頂点の優雅な我々は誰かの暇をつぶすために生まれてきて死ぬまで出来る限り楽しく暇を潰して生きていく暇つぶし生物なのである。オタ活、めちゃくちゃ本質的だ。


 本題に入ろう。推しを推してて発生する悩みの65%以上が、推しの中に理解の範疇を超える言動がある時では無いかと思う。ファンが揉める時、というかファンでなくてもモヤっとする人が現れる時、私の経験則ではそれは大体発信した本人が丁度半端な位置に居る。残り10%はジャンル移行の時の人間関係の整理で、残り25%はクソリプなどSNSの癌だ。 

 一言でまとめるなら、価値観が色々ある、ただその当たり前の話である。食の好みと同じように、トマトが好きな人もいればトマトが嫌いな人もいる。自然でありどっちが悪いとか簡単に言える話では無い。トマト農家からすればトマト好きは大正義であり、トマトを悪魔の食べ物とする教義の宗派の人からすればトマト嫌いこそ正しい道である。しかしどうにもこれが価値の話になると急に独自の「べき論」を振り翳す人が現れるのは何故なのだろう。まあ、オ・タクとはユダヤとキリストとイスラムのようなもので、元は同じだからこそ同族には解釈の都合から異様に手厳しくなるのは世の常なので致し方ない。例えるならば、〇〇くんと呼びイタリックのアカウント名をつける夢女と、〇〇たむぴっぴきゅるんちゃむと呼び検索避けを徹底する荒ぶる関係性キモオタクと、実名ツイートとタグ付けを徹底し〇〇さんと呼びマナー喚起するはてブロ帝国の主と、〇〇と彼氏よろしく呼び捨てし絵文字の垢名で違法に完璧に美しく切り取って動画を上げまくる夜のお姉さん達では、対象は同じでも宗派が違ってしまっているので細かく棲み分けないと戦争が起こる。パレスチナと一緒だ。ここまで書いておいて実はガヤの中の問題はミュートしちゃえばいいしそれほど深刻にならない。問題は、何故価値観の合わない人を自分がわざわざ好んで時間を掛けて追っているのかという、内的な主との葛藤に帰着する。宗教だからね、座禅と一緒です。

 でもその答えは簡単で、別にその部分が好きな訳ではないからである。大体全てを好きであるなんていう状態は家族であっても極めて珍しいのでは無いだろうか。
 大好きなお菓子とかファストフードだってその成分表を細かく見れば実はよく分からん国からの謎原材料を使ってることだってある。でも、私達は例えば「食感と見た目が好き」、究極「なんか美味い」を満たせば体内に取り込んで自分の一部にさえしてしまう。人間って大雑把だ。
 そうなると、他人を粗まで全部が好きなんて到底無理じゃない?という気がしてきた。その上で好き、ということはあながち不思議どころか至極普通なのだと思う。愛し抜けるポイントが一つありゃいいのにである。全人類、兼近も好きなんだから稲葉さんを信じろ。

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そうは言ってもね

 それである。そうは言っても、あまりに教祖の像がぶれると「自分何してんの...?」「この人に本当に着いていける...?」と妄信から我に帰ってしまう時があるだろう。カルトに気づいた瞬間の信者の顔である。自分で頭を動かせているんだから自我が死んでなくて健康的な証拠だ。まあでもカルトと違って財産を毟り取られたりしないのだから、なるべくなら切り捨てないで好きなものは沢山手元に残しておきたい。その方が人生楽しいもん。この記事はまたいつかそうなった時の私自身のために書いている。なかなか良い例えが見つかった。

 推しを情報と捉えてしまえば、難解な学術書と同じである。

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 理解出来る部分は読めるし参考になるが、そうでない部分は読めない。他の文献に当たっても、その言葉の意味を調べても分からないところは飛ばすか、自分の解釈で読み進める他ない。何度も繰り返し読めばいつしか分かることもあるし、ずっと分からないこともある。

 推しでいう他の「文献」は過去の言動である。字引を使おうと口から瞬発的に出る言葉は本人に聞くしか、しかも”その時の”本人に聞くしか正確な定義などされないのだから、はっきり言ってその部分の正確な定義は知りようがないのである。どんなに第三者のオ・タク同士で論じようと答えは出ない。我々の長年の読書経験から分かることだが、現時点で理解出来ない箇所であまりにも長く立ち止まることは非効率的である。最後まで読み終わりたいのなら飛ばした方が良いし、飽きてしまったら途中で読まなくなったとしても、また何年か後に開いても、特定の章だけ参照しても誰にも迷惑を掛けないのである。この説に依拠すれば、古参が強い理由も参考文献を大量に保有しているからであるとすればある程度合理的に説明がつく。大学教授の部屋というものは壁一面本で溢れかえっているからこそ権威なのである。


 粗品さんは、結構私にとって難解な学術書である。

 ズバズバ言ってくれるから都度気持ちは額面的に受け取れても、何故そう思うのか分からないし何故その行動に出るのか分からない時がある。しかし、無性に続きを読みたいのである。そんな本だ。

 短絡的なのか思慮深いのか、人が好きなのか嫌いなのか、人の目を気にしているのか気にしていないのか、対人関係における価値基準は責任か迷惑か社交か愛か。分からないが、少なくとも私とはわりと異質で、出会った事がないタイプの人である。だからなのか、面白いことを道の真ん中に置いている彼が次にどんなページを書くのか見たい。ただ難し過ぎて向き合うのに疲れた時は、2、3ぺージ読み飛ばしても良いし、日を置いて眺めて振り返っても良い。ただそれだけの話であるような気がするのだ。本は、頭からあとがきまで全部を前から読んだ方が偉いとかそういう問題では無い。読みやすい分かる本が好きなのか、ややこしい言い回しの分からない本が好きなのか、次々にシリーズを読破したいか、じっくりと何度も同じところを読みたいか、誰に責められるでも無い好みの問題だ。全員好きに読めば良いんじゃないかな。

 やはりオタ活とは人文学系の営みであると思う。虚学だ。しかし虚学は、二足歩行で手の自由が出来た時から人間の本質である。鉛筆を持てば落書きが生まれ、紙を持てば飛行機になる。そんなものだ。手を動かせばそれだけで楽しいことが思いつく、まさしく冒頭の私である。知的好奇心のままに情報を集めて一喜一憂して考える。それは非常に、法則的宇宙から逃れるただ一つの手段、思惟する人間の姿=コギト・エルゴ・スムとしてヘルシーであるように思う。オ・タクは精神が健康的だ。またコギト?!

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 あるいは推しは、定義出来ない物語かもしれない。

 そういえば私が小学校の時に一番好きだった本は、はてしない物語である。

はてしない物語

 話は長過ぎるし一ミリも記憶に残っていないのだが、とにかくあの圧倒的な没入感と反して読了後解放された瞬間ほぼ何も記憶に残らず、現実に手元の大きな本を「読み終えた」というただそれだけの事実が残っているような魔法が解けた感覚になるのが好きだった。中身が好みとか、気にしていないのである。だから、よく理解していなくても好きなものは好きということはあるのだ。時間が無限にある小学生の時にしか読めない良い本だったと思う。おそらく今後、開くことも読み終えることも無さそうな所さえ、あの目の覚める感覚が子供の時にしか感じられない特別な魔法みたいで大好きである。

 私はそうなると今、粗品さんというおもしろ魔法に掛けられている訳だが(照)、まあその魔法がいずれ解けて、その間の記憶すら曖昧だったとしても、なんか好きだったという確かな実感は残り続けるしこれはこれでいいのかなと、最近は結構おだやかに思うのである。

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