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皆 同じ月の下で踊っている-7/20/23

横浜にあるとあるオシャレなカフェで落ち着いた午後を過ごした。

そのとき何の気もなしにiPhoneにあるAirDrop機能をオンにしてみたら

「ざこ」と「ぷりぷり」しか居なくて鬱になりそうだった。

とはいえ

「ぺちょんぱ」

かくいう私もこういう身分なので、「ざこ」も
『エアドロしてみたら「ぷりぷり」と「ぺちょんぱ」しか居なくて鬱』
と思っていたのかもしれない。

みんな、同じ月の下で踊っているだけ。

回顧録

とあるYouTubeラジオを聴いていたら、リスナーからエモーショナルなお便りが寄せられており、「懐かしホルモン」がドバドバ分泌されたのを感じた。
内容は「親に誕生日プレゼントで3dsを買ってもらったので、仏壇に飾ってあったおばあちゃんの遺影を撮影し、『顔シューティング』という、撮影した顔写真を元に敵を生成できる3dsのデフォルトソフトに登録してラスボスと化した死んだおばあちゃんを撃破したら不謹慎だろと親に怒られた」(概要)というもの。


おばあちゃんを2度も殺すな。

いや1度でも殺したらダメだろ

顔シューティングのプレイ画像。今思うとキモすぎるんだけど

このお便りが読み上げられ、「顔シューティング」という言葉が出てきた際にすごい体がゾワッとした。おばあちゃんについては割とどうでもいい。かくいう私も、小学校低学年くらい(たしか)のときにプレイしており、その懐かしさに心動かされたから。

小学校の青春のうち、21歳になった今はもう再現できない、あのときの俺のものだけの楽しさ。それ故に今まで何かに重ねて思い起こされることもなく眠っていた"これ"が、生々しく蘇ってきたのを感じた。具体的なエピソードなどないのだが、とにかく夢中になってプレイしていたことやそのときの高鳴りは覚えている。友達とはしゃぐ時間は今でも作れるんだけど、そうじゃなくて。

現在の視座からからだとまあクソゲーに見えるが、当時のニンテンドーが展開してきた従来のゲーム性を思うとそれは紛れもない革命だった。
端末の画面の中で完結していた仮想世界が、現実に足を踏み入れてきたのだ。表情豊かにうごめきながら襲ってくる知り合いの顔を、撃ち落とす。それだけなのに、無性に面白かった。
しかし結局あのあと、顔シューティングでフル活用されていた「AR機能」も「3D機能」もほとんど用いられることなく、廃れていった。現在発売されているニンテンドースイッチにこんな余計な機能はいらない。

「今見るとしょうもないし、キモすぎるだろう」という私の中でのコンテンツに対する受け入れ難さが大きくなるほど、「それによる楽しさが本当にもう戻らないものなのだ」という昔との乖離、それによる切なさも合わせて膨れ上がっていく。

楽しめることを失うことのやるせなさは、たとえあらゆることの楽しさを知った今の感性の在り方や経験とは独立して、絶対的に悲しいものだ。


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