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夏、息吹を宿し、宿されるニャ-8/20/23

日記執筆の継続が断たれ続けているという現状について、
考えを改めないといけないな。

少し前、つまり日記を毎日更新していたときは日記を更新することの有意性と楽しさを噛み締めてたからやれてたのに、今はそのどちらの感覚も欠如しててやばい。

でも以前よりスッと言葉が出てくるようになったのは日記での言語化というステップの賜物だ。ここに有意性は確かにある。改めて今理解した。

さてなぜ楽しめなくなったかというと、産み手の視点から見た自らの陳腐さにとてもとても絶望したから。

文章に限らずとも、何がしかの形で自らのアイデアや考え、頭の中にあるものを外界化するとき、空想でなく現実に存在を与えるための、「形にする」という処理を施すことになる。

それは頭の中のごちゃごちゃに散逸した「想」に、秩序を与えることだ。存在するために、人がそれを認識できるという状態にするために、存在のルールを与える必要がある。例えば、「油彩画」「詩」「創作ダンス」などであれば、「絵で表そう」「言葉で象ろう」「体の動きで再現しよう」と言った具合に、必ず産み手の手ほどきが加わる。「こんな表現にしよう」という産み手による意図とそれによる選択の連続の末、創作はこの世界に顕現する。
(余談だけど、だから「表現」という単語の漢字はマジで本質だと思う)

ここよ。この、「何」を、「どんなフォーマット」で、「どうやって」形にするか、というフェーズね。
問われまくるんだよね、センス。

ないんすわ。センス。最近そういうクリエイティビティあふれるものに触れまくってたんだけど、スゲすぎ。みんな。カッコいい。かたや俺は、路傍のウンチくん。いらんプライドと自意識を片手に、産み手としての立場から他の産み手の所作が目に入るようになり、嫌になり、自分のアイデアを中絶しまくった。でもまって?この世に生まれてくるべきじゃない人がいないという言説があるけど、それってアイデアにも同じこと言えるよねえ!?

俺が感じるそれを表現することで世界に新たな息吹が宿る、これって他ならぬ俺の存在そのものでもあるよねえ!?こrrrrrれどうなのぉ!?やっといたほうがいいんじゃないかなあ!?

なので、どんどん形にしていくニャ!


母方の祖父母の家にあった、水色系統サブカル扇風機


親戚で集まって、畳の上で盆に盛り付けられたスイカを食べた。
子供時代によくやったなあと思いを馳せながら過ごした時間は楽しかったけど、この出来事を「懐かしい」とか「夏のエモ」としてしか捉えられない、このさもしさ/寂しさ。

祖父母はもう80代だが、ずっと無花果農家をやっている。
毎年夏になると実がなるので、収穫して道の駅で販売している。
人パック600円。肉親とは言え、それなりの労力がかかっているのでなるべくお金を払って食べたい。写真の訪問は少し前のものだが、今日も6パック買いに行った。1万円渡したのでお釣りが6400円のはずなのだが、祖母の手計算の末お釣りが2500円しか渡されなかった。歳だ。ちゃんと計算をして6400円もらえたのだが、高齢者が多いこの地域でこの感じだと、おそらく一回の会計で大儲けしたり大損したりしてるんじゃないか。

家の近くに呪物があったニャ

メロンほいっぷにゃあ~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

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