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「こうきょう舞までの足あと」

知念大地が今日に至るまで、辿ってきた過程。
(語り手 / 知念大地 聞き手・編集 / 藤原佳奈)

■大道芸をはじめ、大道芸をやめた

プロを目指して12年間続けていたサッカーを辞めて、逃げるようにして出てきた東京で大道芸と出会った。たった一人の人間を起点に、路上で赤の他人同士が“人間の顔”を見せ合う瞬間に感動した。その後、僕は大道芸人となった。
客寄せや大技、メインの芸、投げ銭トーク、それを完璧に獲得するまでに3年ほどかかった。手法を覚えてくると、観客の心を動かせるようになってくる。だんだん、これは人間を騙している行為なんじゃないか、と感じ始めた。特別なもの、人より秀でたもの、珍しいもの。そういった人との差異で拍手を浴び、尊敬を集め、飯を食うことに疑問を感じながら芸をしていた。観ている人がカタルシスを得られたら「いい芸だ」となる傾向がある。同じ人間と人間において、もっと見つめるべき問題があるはずだと思った。観客は、大道芸人に自由な姿を投影するが、僕はその時、技芸で身を固めた誘導者の様に自分を感じていた。僕は、本当に自由になりたかった。
そして、2007年、一度大道芸を辞めた。


■オドリと出逢う

小手先で芸をやるのではなく、僕の心そのものが芸だ、と思い、心で思った事をそのまま発言して、そのまま行動に移して過ごした。頭を通さずに本当に思っていることをお腹に聞く、全身これになりたいと思った。目の前が戦場だった。絵を描き、歌を歌った。よく喧嘩をして、よく泣いた。本当に思っていることを言えば、人と衝突する。みんな言いたいことを言えばいいのにと思っていた。ただ、この時期、父親に「抱きしめて欲しい」という言葉だけが言えなかった。(特に切実に思っていたわけではないけど、なぜか言えなかった)殴ったり殴られるより、その一言を発言することが怖かった。自らの弱さや愛を表に出す、ということが、暴力よりも怖いんだな、と思った。ずっと外を歩いていた。ほとんど寝ていなかった。ある日、海に入ってバタンと倒れたら、大きな空が見えた。この綺麗な空はずっとあったのに、これを見ていなかった、人の醜いところばかり見ていた、と思うと、なぜだか笑いが止まらなかった。海を出ると、大道芸を観てくれていたお客さんから、「また、芸が見たい」とメールが入っていた。自分が路上で「悲しい」と叫べば、みんな心で思った悲しさを出しやすくなるかもしれない、と思って、また、大道芸に戻った。

戻ったライブでは、「死のうと思ったことがある」と発言したり、人間の醜さを出す芸をした。ただ走ったり、よだれを垂らしながらハーモニカを吹いた。

そんな時、中野にあるオルタナティブスペースplan-Bで、田中泯のオドリに出逢った。

田中泯は、舞台上でうずくまっていた。
こんなものが成立するのかと衝撃だった。観客への誘導を一切感じなかった。とてつもなく、優しかった。人前に、ただの命が転がっていた。
その日のことが、ずっと忘れられなかった。

その後、芸道具にペンキをぶっかけたり、暴れたり、誘導を引き裂くような芸をするようになっていった。極力自分の引き出しを使って芸をしたくなかった。路上で観ている人の前で、急に水をかぶった。目の前の人が笑った。芸の手法(引き出し)を使わないと、その場が生々しくひとつになる。でも、慣れると手法として確立されてしまうことにも気づいた。「破天荒」という精巧な型も作れる。芸はどんどん過激になっていった。通行している車の中に入ったり、通行人に絡んだり、本番中にお弁当を食べ始めたり。笑ってくれる人もいたけれど、批判する人もいた。
 
大道芸で何をやっても、田中泯の踊りが頭に残っていた。
2012年。息子が生まれる前、自分はどんな父親であればいいかと考えた。
「人気者でカッコイイ親父よりも、ぶざまでも必死に生きる親父でありたい」と思った。その年、田中泯さんのお弟子さんの石原淋さんから、plan-Bで 「公演をやらないか」と誘いの連絡がきた。大道芸を、と言われた気がしたけれど、あのとき感動した泯さんに応えるために、大道芸をやることはできなかった。僕は初めて「踊り」の公演をやることにした。できるかどうかは関係がなかった。

踊りが何かも分からなかったけれど、小手先じゃないということだけは分かっていた。一切の作為がないものを観客の前に置きたい。そのためには、身体が漲っていないといけない。朝5時から公園で一時間、ただひたすら全力疾走して、吐くまで走った。井の頭公園で一人、ただ、立った。公演日までに踊りを見つけようと必死だった。道具を持たない時間は怖かった。大道芸人としての自分を打ち砕くような時間だった。

立っている姿をカメラで撮影して見返すと、立つ、ということも、誰かの真似のような気がした。動画で、立っている自分が倒れる姿を見返したとき、少し、綺麗だと思った。そこから、とにかく何度も何度も倒れた。映像で見返して、今の形綺麗だな、というのをスケッチで描いて振り付けにした。
「芸術クソくらえ、表現クソくらえ、知念大地クソくらえ、俺は真っ赤な命なのだ」
当時、初めての踊り公演でパンフレットに書いた言葉。

以降、もう普通に大道芸ができなくなった。
芸に踊りを入れると、客足が遠のいた。通報されたり罵倒されたり散々だった。

ある日、雨の中、井の頭公園でただ立つ、という踊りをやっていたら、サラリーマンのお兄さんがずぶ濡れになりながら自転車を停めて見ていた。踊り終わった後にぼくに千円を握らせて、「何だか仕事いかずに見ちゃったよ」と言った。何に感動したのだろう、と思ったけれど、こちらがあげるものがなくなっても、「何か」がそこにはあるのだ、と思った。
それは何か。ずっと、それを探していた。


■「いのちの踊り」の探求

2014年、宮台真司さんと坂口恭平さんの対談(2012年のもの)をYouTubeで見た。今の時代に危機感を感じて、日本に独立国家を本気で作ろうとしていた坂口さんのために、踊りをつくりたい、と思った。対談する二人の間のちゃぶ台に立って「坂口さん、もう踊るしかないですよ!」と命そのものを置きたかった。語るべきことが語りつくされた後に、もうやることがない、と思った。はじまりの何かが必要だ。それが、今、世界にない、と思った。そして、それは踊りだ、と思った。
それから、僕は「いのち」そのものの可視化が時代に急務だと思うようになった。本当に何かを変えなきゃいけないと思った。それは命に変えても。
坂口さんの活動は、どの枠にも収まっていなかったから、自分も大道芸という場所におさまらずに、人間として踊りを掴もうと、いつでもどこにでも踊りを社会に打ち込んでいくという決意をして、許可されていない場所でも踊るようになった。
 
道で、転がって踊っていたら警察に通報された。そのとき「僕たちは立たされ、歩かされているんだな」と身に染みた。ある時は救急車を呼ばれた。理解できないものと出会ったとき、通行人は「狂っているか、病気か」を分類し、通報する。改札前や迷惑がかかる場所であえて踊り、罵声を浴びせられた。修行のようだった。でも、こちらは腹が決まっていたし、命がけだった。逮捕されてもいいと思っていた。「いのちの踊り」は、無意識に服従してきた秩序へ反旗を翻すことでもあった。

Plan-Bで踊らせてもらった期間は踊りを探すため、思い付くものは片っぱしからやった。動物の捕獲や交尾の断片を集めて踊りにしたり、ただ精神的に落ち込ませて静かな身体を踊りにしたり、大好きな人に捧げる公演をしたり、幼少期を思って踊ってみたり、牽かれた場所に踊りに行き現場の魂や霊を身体に充満させそのまま当日踊ったり、罵倒された身体をそのまま晒したり、真剣さを崩すヘンテコな格好で観客に超接近して真剣に踊ったり、踊りの中に歌を入れたり、公演に水や土を使ったり、本番まで何一つ決めず当日を迎えたり……。

で、Plan-B最後の踊り公演で、はじめて沖縄の音楽―ハイサイおじさんを流しながらラスト15分間くらい全力で、身体を回転させた。その時、舞台上でかすかな叫びのようなものが聞こえて、それは確かに沖縄が呼んでいる感じがして、踊り終わったあと、いてもたってもいられなくって、ただ漠然と「今すぐ沖縄に行かなきゃ死ぬ」と本気で感じた。戦後70年だった。

■人間以外と踊る

予定を決めずに沖縄に到着してから、土地の霊に導かれるようにして、戦跡をまわることになった。はじめて、人間以外のものに向けて踊った。今は誰も訪ねて来ないような草ボーボーの自然壕では、立入禁止の金網を越えて中で踊った。石碑を一人で拭いたりもした。僕が小中高を過ごしていた近くにも、沢山戦跡はあった。「米兵に捕まるよりは」と親族同士で殺し合った壕に行ったときは、踊ることができず、近くの駐車場から花を摘んできて、中でうずくまる霊たちにいけた。霊に喋りかけて、海に連れて行ったりもした。沖縄戦を辿り、立ち尽くした。たった70年前、この場所で沢山の人が死んだ。僕らは、誰かが生きたかった今日を生きている。今でもあの情景や魂たちを思い出せる。
帰る間際、台風が3つ近づいていた。商店街のおばあさんと話していたら、「龍神様があんたを返したくないって思ってるんだはずよ」と言われ、帰る日の前日、飛行機を一便早くした。翌日、見事に僕の乗る予定の便から欠航になって、その後数日、東京までの飛行機は飛ばなかった。

東京の路上に戻ってから、芸は大事なことを伝えられるメディアでもある、と思って、路上で沖縄のことを伝えるようになった。無許可の路上で、政治的なことを言うのは怖かった。でも、自分には、沖縄の悲しい場所で踊った身体という真実があった。

それから、命が虐げられてきた場所へ一人で踊りにいくようになった。そこに人間にとっての重要な叫びがあると思った。ダムができて村ごと撤去させられる羽目になった跡地とか、セメント採掘のために削られまくっている山とか、害獣として駆除されたり、道路に出て轢き殺された動物が埋葬されている場所とか、秩父で起こった農民蜂起(秩父事件)の現場や中心人物のお墓の前にも踊りに行った。身をかけて自由を求めた命が、確かにあったということを、事実として自分の身体に宿したかった。朝5時に国会前に踊りに行ったりもした。ヘリパッド建設中の沖縄・高江にも行った。機動隊に囲まれる中、集まったみんなと座った。権力は本当に横暴だ、と思った。機動隊は関東や関西から来ていた。「自然を壊すな」というおじいちゃんの当たり前のスピーチに涙が滲んだ。
辺野古でも座り込みをした。実際にこの目で確かめたくて、現地に行った。沖縄でも「辺野古の人たちはみんなバイト」とか噂されていたから。全然違った。現場でもまたポロポロ泣いたりした。その時は米軍基地の前に立ちはだかる警備の人は沖縄の人で。その人も泣いていた。理不尽すぎた。
 
でも、そこにも自分はずっとは居れなかった。力になりたいのに居れない。それが苦しくてまた泣いた。なんで自分はここから離れるんだろう。やっぱり、「出過ぎちゃいけない」「団結しなきゃ」っていうのは集団のルールで、誰かがそれを乱したら活動そのものができなくなってしまい、訴えることのできる場が奪われてしまう。そういうギリギリでしぶとく戦っていて、僕はそこに居れなくて。

生きたいように生きる、ということでしか「いのちの踊り」は生まれないと思った。それを生活の中でも実践しようと日常でワンピースを着たり、着物を着たり、家のすぐそばで踊りたくなったら踊った。近所の人の目とか関係なく生きた。でも、いつも怖かった。必ずコンビニとかでもジロジロ見られるから。それでも着続けたのは、それが思想の実践だと思っていたから。説明して受け入れてもらっての流れを踏まず、勝手に一人でやること、それが徐々に普通になっていくことが、自由への闘いだと思っていた。
 
山には何かがある、と、裸足でずっと山を登ったりもした。マムシに嚙まれたら死ぬ、と思ったけど、そうなったら死ねってことだと思った。足の裏は、一カ月で石のように硬くなった。埼玉の鐘撞堂山に、雨でも風でも雪でも登った時期があった。
 
オーストラリアに行く縁ができて、原住民が管理する立入禁止区域で踊らせてもらった。アボリジニーの神聖な場所だった。踊りの最後に、霧が晴れ、朝焼けの中に、綺麗なイーグルが飛んでいった。緑の鳥の羽をもらって、お前はファミリーだ。と言われた。
沖縄の御嶽だったり、エネルギーの大きな場所や特別な場所では、よく何かが起こった。でも、一時的な現象は、数日たてば全部消えた。つまり、何も起きなかった。霊に身体を貸すことは危険だし無意味だ、とだんだん知っていった。

それから、自分の生にまつわる場所へ踊りにいった。自分の生まれた病院や、はじめて住んだ団地。団地の硬い鉄の扉の前で踊ったとき、生まれた後、四角い空間の中に入れられ、教育された僕の命は、なんだったのだろう、と思った。命をかくまわれたのか、歪められたのか。そして踊りながら、昔の母と昔の自分に対して、「今、こんなに自由だから、安心していいよ。」と想った。今、自由なら、これまでを救える。

■踊りとはなにか

2017年に、知念大地の踊りのドキュメンタリー映画『踊りたい大地の舞』が撮影された。その時の撮影の堀田さんは、「大地、踊りは生き様なんだよ」と言った。堀田さんは、土方巽の映画「風の景色」のカメラマンだった。それまで、踊りは、人間にとって大事なことだと思っていたから、個人的な“生き様”、という言葉が衝撃だった。踊りは、自分の中に入っていくものだ、とも堀田さんに言われたけれど、この時はまだ、踊りのために外の環境に向かっている時期だったから、その意味も分からなかった。
堀田さんと出会って以降、土方巽にまつわる本や映像は、ほぼ全部触れた。どんなに身体を実験しても、土方巽の踊る輪郭を出せない、それはなぜだろう、と不思議だった。土方さんは他の誰とも違う踊りの輪郭だった。

踊りってなんだろう、と思いながら、誰もいない河原で踊っていた。身体を空っぽにした状態で、訳もなく身体の内側の炎を燃やす。その踊りを白骨発火と名付けた。息の続く限り、思考が追い付けないぐらいとにかく動いて踊った。飛んだり跳ねたり、ひたすら叫んだり。シャケの気持ちが知りたくて、魚になろうと岩にしがみついて春の冷たい逆流に耐えたりもした。誰も観ていない中で、見返りのない全力投球が可能か、命を懸けられるか、そのことを出来るまで稽古した時期もある。競技には目指す場所があるけど、踊りにはそれがない。誰のためでも何のためでもなく全力であることが踊りだ、とその時は思っていた。けど、やっぱり分からなかった。一度やったことは、全て焼き直しになった。それでも続けた。やることが分からないけれどもやらざるをえなかった。しまいには「大地ー!お前何がしたいんだよ!」と、一人河原で自分の名前を呼んでいた。
 
土方さんが生まれた場所、秋田へ向かい、東北の気になる場所で踊った。陸前高田慰霊碑の前、福島第一原発の近く、青森の六ケ所村原子力発電資料館の中、恐山。

踊りの状態を維持するのには陽が透けたり風が溜まったりする着物が適していた。夜、長い距離を歩くのには音の鳴る下駄が楽しかった。機能性を追求したスニーカーやジャージを纏うと風や気配をシャットダウンして「踊ること」でなく「歩くこと」がメインになってしまった。だから着物に下駄でひたすら歩いた。

妻と息子を連れて、嵐の中、雷が沢山落ちる海でも踊った。
実践としてはこんなこともしていた。ただ、踊り状態で街中を歩くという、もの。喋りかけられても無視。ひたすら歩いた。街ゆく人は、その状態の僕を見るだけで固定化された日常を変革する何かが、起こるのではと思っていた。

身体を研ぎ澄ませるためになにができるだろうか、狩猟採集民になろうかとか、農業をやろうかと思ったけど、自分は踊り手だ、と、とどまった。一度、農業の手伝いでアイガモ農法の鴨を初めて絞めたとき、鴨を殺すことが、表現にとってプラスになるんじゃないかと思った自分を卑しく感じた。
 
もう、外でできることはやりつくした気がした。踊りが環境にもたれている、と思った。何にもない真っ暗な中で、身体は何をするだろう、と思って、秩父の山奥の古民家を真っ黒に塗り、劇場を作った。裸になって、布に自分の髪の毛を貼ったもので性器だけを包み、設定時間になったら人がいようといまいと必ず踊った。踊りのはじまる時間にあわせて身体をつくった。踊りがはじまるまでは、誰とも一切コミュニケーションを取らなかった。決めた時間に踊ることを繰り返し、時間に見られているような、何かの約束を時間と果たしているようなそんな日々を過ごした。秩父の劇場では、1年間踊った。夜は、真っ暗な山を裸足で降りて、登って、精神を追い込んだ。

踊る瞬間のために、どんなに犠牲を払ってもいい、と思っていた。でも、そうすると自分の行為に無自覚になり、人生が狭くなっていく。ささやかさがどんどんなくなって行くのを感じた。獣になっていく様だった。「踊りに向かう時間以外のもの」がなくていいものならば、何故それ以外のものはあるのだろう。限界を感じて、劇場を閉めることにした。


■土方巽命日の踊り

秩父の劇場を閉めて初めて踊ったのが、2019年の1月21日、土方さんの命日だった。山に籠ることをやめて、殺されてもいいから街で踊る決意をしたから、その始まりの踊りをどうしても土方さんに捧げたかった。でも土方さんは捧げられても喜ばないことも分かっていた。何かにもたれることを土方巽の精神は嫌っていた。それだけは知っていた。
その時、僕から土方さんへ命をかけることに値する、あげられるものは何もなかった。
本番までの数日、山に行ったり、大雨の中踊りにいったり、これまで全部やってきたことをまた繰り返した。絶対なる「踊り」を捧げたかった。それが何かはやっぱりわからない。1月21日が来た。昼、河原を眺めていると、寝てしまった。目をあけると、うっすら暗くなっていた。静かな感じがした。今日は、何かが起きるだろうな、と思った。そこへ、観客が6人くらい歩いてきた。ああ、この人たちはラッキーだな、と思った。
火を焚いて、全く真っ白のまま立った。上から、何かに観られているのは感じたけれど、そこにもたれるのも違うと知っている。ただ、そこにある全てに気づいているだけだった。石の一つ一つ、それらがどのような表情であるかも。お腹に、白い火みたいなものを感じた。これを消したらだめだと直感的に思って、その火が消えないくらいゆっくりと動いた。それが、その形態をとりたがっているように動きとなった。はじめての体験だった。静かな時間だった。踊りは、ある瞬間にぷつんと切れて、終わった。終わって、深呼吸をした。その日はスーパームーンだった。踊りを観た一人は、目の前の景色が崩れ続けた、と言い、もう一人は、終わってから涙が止まらなくて帰れなくなって、車を何度も停めて帰宅したと言っていた。
この日の踊りはなんだったんだろうと、その後、長い間追いかけた。同じ状況で踊る、ということもやってみたが、同じことは起きなかった。この日の体内のイメージで踊る、というのもやったけど、うまくいかなかった。

■豊岡に移住

2019年、豊岡に引っ越す案が浮上した。
散々家族に迷惑をかけたから、せめて豊岡で大道芸をして少しでもお金を家に入れよう。そう思って大道芸を再びやる決意をした。
実は、大道芸人に復帰するのが一番怖かった。けど、これは僕がずっと実践してきたことなのだけど、その時、一番怖いことに突っ込む。恥さらしとか嘘つきとか何言われようが、もう一度観客の前に立って投げ銭をもらう芸をしようと思った。どうせ復帰するんだったら楽しませてお金をもらう、というのをやろう、そして、「もう人前では踊らない」、と決意した。踊りは、人前でなくても、どうせ踊る。簡単に辞められるものならとっくにやめていた。
大道芸に復帰して、芸自体は良くなっていた。お金も辞める以前よりたくさん入った。単純に嬉しかったけど、やっぱり、何か違う、と思った。芸能者の身体は、今もどこかで苦しんでいる者たちを代弁する身体でもあるはずだと思って。価値のある、意味のある、続いていくものしかしたくなかった。でも、どうしていいのかわからなかった。
 
豊岡に移住してからは、土地を知るため、毎日朝5時頃に起きて山のふもとで踊り、裸足で山に登った。
 
2020年の豊岡演劇祭に、大道芸で出演した。でも、初日、二日目を終えて、三日目以降耐えきれなくて、やめると宣言していたのに、踊りをやった。踊り方なんて分からないけど、受け入れられなくても、“人間”の踊りなら、人間に見せる価値があるだろうと思い、踊った。人間が人間のために戦ったこと、人間のために立ち上がった場所、死ぬ間際の友人が病室で僕の手を握ったこととか、その想いだけを抱えて、何をやるかは決めずに、踊った。それは、2回目、3回目と、公演を繰り返すと形になっていく。それでも踊った。でも、想いから踊るのは始まりは本物でも「続かない」と思った。踊るために想いを集めるようになっては、生きることから遠ざかる気がした。

また、人前で踊りをはじめた。大道芸人として行った幼保や中学校をまわる仕事でも、踊りを入れるようになった。大道芸(パントマイムやジャグリング)からショーを始めると、子どもから「それ、YouTubeやTikTokで観た」「もっと凄い人知ってる」などとと言われたが、踊りから始めると、その後3つボールを投げただけで褒めてくれた。踊りには「僕らは一緒だ」と思わせる不思議な力があるのだと確かに感じた。

2021年、「景の会」プロジェクトに誘われて参加した。メンバーは僕以外皆忙しく、助成金を処理するためにとりあえずやる事を探している感もあった。第三回目の「景の会」で、僕が歩んできた切実なことを伝える会をやりたい、と、トークと踊りをやらせてもらった。このときに踊った最後の踊りのお客さんの感触を見て、「もしかして、みんな、僕が本気で取り組んできた踊りを(ほんとうに)観たがっているのかもしれない」、と思った。それは僕にとって、思いもよらないことだった。
 

■「こうきょう舞」のはじまり

鳥取の用瀬で10日間くらい滞在して、鈴木南音さん、藤原佳奈さんと、今の芸術や、社会への不信感に対して色々話した。このとき、生まれて初めて、「今の公共に何をおくのか」を考えた。それまでは、観客の前におくもの、人間に対しておくものをずっと考えていた。すべての人間、動物、風、あらゆるものがある中の、センターに何を置くか。争いをとめるものがセンターに必要だ。言葉化されてはいけない。はぐらかしでもない。決定的に身体で観て身体で感じてしまうもの。どんな身体なら公共におけるか考えた。衝突しない身体。選別されない身体。公共にあるべき踊りを創る。これが「こうきょう舞」の下地になった。

そして、「こうきょう舞」を起点にして、公共に踊りをひらく活動、「しんしんし」が始まった。

本当の状態のまま、それぞれがあること。
それは、すべての人が探していることだろうなと思った。

未来や過去はあやふやだ。
今、確かに僕らが生きていること。
今ここにこそ、僕らはいる。
それこそが、僕たちが本当に感じたい、
大切にしたいことではないだろうか。
 僕たちは、今、確かに、在る。

■踊りの現在


■追記 2022.9.29

「こうきょう舞」は、ともにあろうとする意志を見つめながら現在も変わり続けています。 今、呼び名は、「こうきょう舞」ではなく、自然と「踊り」というに呼び名に定着しています。 しかし、誤解してほしくないのは、この踊りは、それぞれをそれぞれの存在・誇り(外的要因に寄らないもの)に立ち返らせるものであって、個の才能や技術、努力、センスを「観客(ファン)」に披露するものではないという事です。 あらゆる先鋭的な誘導を駆使し、個々を束ねるものを権力、それを有り難がるものを従属者とするならば、踊りは見るものを生の先端に引き戻す抱擁です。属性や個性すらふるい落とした、わたしとあなたの源泉に触れようとする意志の変容であり、同時に束ねられる事への怒りでもあるように思います。

踊りは自身の精神が引き受ける公に向け放たれるものであるため、唯唯流されて生きている闘いの無い肉体には決して見えないものである、と記しておく。 ともに在ろうとすることは、存在の共振であり、自己を高めるため(または満足させるため)の他者摂取ではない。
知念大地

追記2022年12月7日
「こうきょう舞までの足跡」は知念大地自身により藤原佳奈に向け語られた記憶の片鱗です。改めて振り返ってみると、様々なことが抜け落ちていたり(公にできないものもある)、僕自身の中で編集(美化)されたりしている箇所もございます。
どうか、距離を取ってお読みいただけたらと思います。

踊りと皆様を少しでも繋ぐために、懸命に言葉を紡いでくれた藤原佳奈の作業に改めて感謝します。


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