見出し画像

ユース出雲かわらばん~三枝春香さんインタビュー~

コミュニティナースカンパニーが運営する新しい拠点が出雲に出来ました。
出雲でどんな人がどんな思いで何を起こし、どんな未来へ向かっていくのか。
「ユース出雲かわらばん」では、ユース出雲の今をお届けします。
第5回は、大学病院で10年間看護師として勤務した後、自分の幸せを追求し実現するためにコミュニティナースカンパニーで働く道を選んだコミュニティナースの三枝春香さんをインタビューしました。

どんな子どもだったんですか?

たぶん私、負けん気が強かったんですよね。
3歳のとき、犬に噛まれたんです。で、どうしたら克服できるかな…って思って、犬を飼いたい!って言ってました。子犬から育てて懐いてたら噛まれないかなって思ったんで。でも飼わせてくれなかったので、保育園児のときはペット屋さんになろうと思ってました(笑)
小学校のとき、バレーボール部に所属していました。周りの子は小さい頃からバレーをしてたり、親もバレーをやっている子たちが多くて、すっごく上手だったんです。でも「あいつは親がバレーをやっていないから、レギュラーになれない。」って思われたくなくて、とにかく必死で練習しました。上手い子に「教えて!」と言って教えてもらったりして。週7でバレーボールに打ち込んでいましたね。その結果レギュラーになれたんです!「やったぞ!」って思っていましたね。
中学生のときは陸上部。バレーボールも楽しかったんですけど「連帯責任」って感じが苦手で。自分がやったことで誰かが責任をとるのも、誰かがやったことで自分が責任とるのもなんだか嫌でした。陸上は一個人の勝負で、自分のあり方や成果がそのまま出る。「走っているのは一人だけどチームのためにがんばっている」感じもあって、すごく合ってました。陸上は高校まで続けましたね。

小中は勉強もできました。暗記が得意で、見たものは写真みたいに頭に残っていくんです。だから、テスト勉強は要領良くできた方でした。

友達もたくさんいました。中でも、近所に同い年の従姉妹がいて。親が働いていたので、一緒にいることが多かったんです。互いに「羨ましい&尊敬する」存在で、刺激を与え合いましたね。従姉妹の影響で、いろんな習いごとをしたり、スーファミしたり、ジュディマリ聞いたり、町内のカラオケ大会にでたり、いつも一緒でした。従姉妹とは今でもよく話すんですが「話してないことなんもないな」くらいの関係性です。地元の友達とは今でもよく連絡を取り合っていて、帰省のたびに誰かしらに会いにいっています。彼女らのことをすごく尊敬してるし、出会えてよかったなと思っているんでこれからもつながっていられるといいなと思ってます。

でも元々クラスの「グループ」みたいな関わりはあまり好きではありませんでした。「トイレ一緒にいこ〜!!」みたいな話が好きじゃなかったんです。「え?なんで?」みたいな。それでもうまく合わせたり、かわしたりしながら学校ではうまくやってたし、特に根拠はないけど自分は「無敵」だと思ってました。

高校は県内一の公立の進学校へ行きました。素頭がいい子が多いのが本当に印象的でした。これまでの世界とは別次元だったんです。いい意味で他人に興味がないんですよ。自分の夢を実現することしか興味がない。合わせようとしないんです。「違う」って言っていいんだと思えるその場所はユートピアでした。誰かと比べて「無敵」になることから開放されたんです。その高校はすごく自由でした。自分がどんな気持ちでどうしたいか、そのためにどう管理していけばいいかを考えることがとても大切だと知りました。高校生活は自分の心に従って「今」を謳歌することに夢中でした。

看護学部にに進んだと聞きました。

小学校のときに曾祖父の死に顔を見たんです。「怖いな」って思っちゃって。ペットの死も怖くて、飼ってたハムスターの死体の処理はいつも弟にやらせてました、彼優しいんで。高校の進路選択で自分と向き合ってみたとき、今まで逃げてきた死を「受けとめられるようになりたい」って思っちゃったんですよね。「医」の勉強をすることでそれができるようになるんじゃないかなって思ったんです。

それで医学部を目指してみたいなって思ったけど、まだ死との対峙が怖くてなんとなく臨床検査学科とか生命化学科とかを受験しましたね。でも第一志望に落ちて、他の大学に行く気持ちももてなくて「あ、なんか違うな。」って浪人しました。そもそも純粋にこれやりたいを見つけたいと思いました。なので浪人中にオープンキャンパスに行きました。その中でも、当時従姉妹が湘南に住んでいたので、近くにある慶應義塾大学の看護学部に行って、衝撃的な出会いがありました。それは、医療系学生による国際協力隊euphoriaの活動です。死がうんぬんかんぬん言っている自分が恥ずかしく感じました。死と隣り合わせの環境で生きる人々に尽くす存在に、本当に動かされたんです心が!もうこの活動をやるしかないって思って受験しました。

慶應義塾大学に入学してからは、勉強よりもeuphoriaの活動に没頭しました。夏休みは毎年ずっとインドネシアにいましたね。売春宿街で働く女性を対象に健康教育のプログラムを実施するプロジェクトに所属してリーダーも経験しました。彼女たちが生きるためにしている仕事で、生命を落とすことにならないようにどうしたらいいか必死でした。衝撃だったのは売春宿街の客のほとんどは、日本人男性なんです!エイズや性感染症になり絶望のふちで悲しんでいる彼女たちを何人も見てきて、本当に心が痛みましたし、日本人にイラついていましたね。

アルバイトもいろいろ経験しました。カフェ店員やホテルの給仕、居酒屋、漫喫、家庭教師に塾講。看護学部には進んだものの、看護師になりたいわけではなかったので、いろんな職を見てみたいと思っていました。対人のものが多いですね、接客は好きでした。

病院へ就職することになるんですよね?

大学4年生の時、東日本大震災があったんです。
その時、マザー・ハウスでのボランティア活動を終えインド横断の旅をしている最中でした。現地の人に「トウキョウ・ツナミ、トウキョウ・ツナミ」と教えてもらってネットでニュースをみたらあの津波の映像が流れてて。「日本終わった」って思ったんです。これまで国際協力関係の活動ばかりしていたのですが、日本が大変なときになにやってんだ自分!って思って、自分にも日本人としてのアイデンティティがあってその可能性を信じている自分もいました。

すぐに日本に帰って、現地に震災ボランティアに行きました。「あんた何してるの?」と聞かれ、「看護学生です」というと、期待されるんです。だけど、現場の知識も技術もないから期待に答えられなくて。「結局何もできんのんか。」と罵倒されたり、怒られたりしたんです。不思議とその時「辛い」という感情よりも、「負けん気」が湧いてきて、「できるようになったるで!」って思ったんです。病院に行こうってこれまで思ってなかったんですけど、その時、大学卒業後の進路として病院に行くことを決めたんです。実習も楽しかったですしね。入職後、部署希望がだせたんですけど特にこの分野で働きたいという思いはありませんでした。「技術を身に着けたいから救急とか集中治療かな?」って思ったりしましたが、結局「人間のはじまりからスタートするのもいいかな」って思って、新生児領域を希望して配属されました。

NICUに入ってからはとっても大変でした。声なき声をひろい、早産でまだ粘膜みたいな皮膚で自力では呼吸ができない小さな命を守る仕事で、「神の領域」だなと感じました。一人前になるまで同じ部署を続けようと思っていたらあっという間に8年経ってました(笑)本当に本当に大好きな領域でした。

コミュニティナースカンパニーとの出会いはいつだったんですか?

忘れもしません。2021年の10月、神在月でした。
2020年にコロナウィルスが蔓延して病院はもう戦場のようでした。元々他の領域もやってみたいと思っていたので自分から希望して、コロナ患者も取り扱う呼吸器病棟に異動しました。対象患者も取り扱う疾患も変わり学び直す日々、死を感じる瞬間も今まで以上に多く経験していましたし、自然と昔感じていた得体の知れない怖さはなくなっていました。

仕事は大好きでしたし、やりがいも感じていました。
でも2018年頃から全身に激しいかゆみのある湿疹がで始めて身体の異変を感じていました。でも働きたかったので、免疫抑制剤を飲んで湿疹を抑えて働いてたんです。「この薬を飲めば働ける!」って、何も疑問を持たずに飲んでました。


コロナ禍中、1人の時間が増え自分と向き合う中で「夜ちゃんとねたいし、薬飲むんじゃなくて体質改善したい!自分の人生って何?」って感じちゃったんですよね。看護師になって10年、一通り経験してできることもふえた。たくさんの患者さんと出会う中で感じていた違和感を病院の看護師としての立場ではない視点から眺めてみたいなって思いもあって、いったん辞めよって思いました。そのことを友達に話していたら「矢田明子って人に会ってみない?」って言われたんです。そしたら、とんとん拍子で話が進み視察に同行させていただけることになりました。


そこで働いていたコミュニティナースの方の姿が本当に印象的でした。本当に楽しそうなんです。「私は看護師という使命感を感じているけど、自分が幸せになることを忘れていた!」と強い衝撃を受けたんです。「自分が幸せになれないことを環境のせいにして、勝手に諦めていたな」とすごく反省して帰ってすぐに退職届を出しました。すると「え!?」とすごく驚かれたんです。「今忙しいから1年間待って」とも言われました。でも「どうしても辞めたいんです」と意志を伝えてやめました。

その後、代表の矢田さんに「働かせてください!」って連絡したんです。だけど「いま任せられるポジションないよ。払うお金もないよ。それでもくる?うちは挑戦は保証するけどあとはなにも保証しないよ!」って言われたんです。
「いきます!」と自分の意志を伝えました。コミュニティナースカンパニーで働くことは、自分が幸せになるために必要不可欠だと思ったんですよね。

・最後に、ユースの活動にかける想いを教えてください!

私は、ユース世代の人が「肌感覚を大切にできる活動」をつくりたいんです。なにか大事にしてきたものが揺さぶられるような体感地をつくりたいんです。今、インターネットが発達して、いろんな情報に触れられるようになったと思うんですけど、「判断」するのは「大事にしたいこと」とか「肌感覚」だと思うので。高校までは自分の肌感覚をすごく大切にできていたんですけど、大学に行ってからは「認められる」とか「お金」「自立」に執着していたように思います。「え!慶應?すごいじゃん!」とか周りに言われて、認められるのが気持ちよかったんですよね。病院に入ってからは「スタンダードなものを身に着けないと自分が何者にもなれない!」と、とにかく必死で。でも今は「そうじゃなくない?」って思ってるんです。
だから、ここに来ればいろんな価値観に触れられる「スペースマウンテン」みたいな活動をつくっていけたらなって思いますね。

ユース出雲でユースと一緒に活動している三枝さん

若者応援サポーター募集!

プロジェクトの詳細は、以下のリンクからご覧ください!

インタビュアー ひびき
愛媛県出身。能登地方で夏は塩づくり、冬は酒造りの季節労働でお金を稼ぎながら、田舎暮らしで、生きる知恵を身に着けている20歳。塩づくりがはじまるまで、コミュニティナースカンパニーのお手伝いをしている。

ユース出雲の足がかりとなった2022年のクラウドファンディング

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?