表現は不器用な人のものでもある。
昨晩、元たまのランニング(厳密にいうとパーカッション)の石川浩司さんとラジオで話した。石川さんは、器用なタイプではない。小さい頃、図工の彫刻刀を使ったら血だらけになっちゃうし、体育の授業では準備体操がひとりだけ動きが違うと笑われた。この笑いが、石川さんにとっての光になった。不器用な自分を笑ってくれる人がいるならば、みんなが楽しくなるような不器用を目指せばいい。そこから石川さんの表現は始まった。やがて、石川さんが中心になって結成したたまは、社会現象を生み出すほどの人気となった。最大のヒット曲、『さよなら人類』では「今日 人類がはじめて木星に着いたよ(着いたー!)」の「(着いたー!)」で鮮烈な印象を残した。それぞれメンバーの個性が色濃く残った状態のまま存在してくれたことが、当時うれしかった。
あの曲がヒットしたのは1990年、中学生だった僕は机に突っ伏していた。同級生との会話、コミュニケーションを全て断絶。孤独が過ぎて円形脱毛症に陥っていた。暗闇のなか、何に悩んでいるのかさえ定かではなかった。ただ、みんなが知っていることを勉強して、そのスコアだけで評価されてゆくことに違和感を感じていた。本や音楽、映画くらいしか友達がいなかった。あるとき、その友達のことをもっと知りたくて、本を書いている人の気持ちになってみることにした。あの詩情の正体は何だ。音楽を作るには何が必要なのか。スピーカーから音が出るのは、どんな原理がはたらいているのか。釘付けになったあのシーンには、どんな時間工学が隠されていたのか。本や音楽や映画を作るための工学的な知識として教養があると知って以降、もう勉強は苦ではなくなった。テストの点数のためではない。あくまでネタ作りのために現実を把握する必要が出てきた。現実のすべてが表現の材料となった。人生が忙しくなってきた。
表現は、器用な人だけに与えられた特権ではない。不器用な人じゃないと辿り着けない場所がある。最初から上手にできなくても全然だいじょうぶ。ネタ探しほど、たのしい時間はない。締め切りに苦しむことはあるけどね。
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