私だけが生きる「私」

「かっこよく生きてね」もしくは「かっこ悪いまま生きててね」のどちらもを、私は命を肯定する言葉として捉えている。けれど人に投げかけるのは簡単なのに自分に矢印を向けると途端に何の救いにもならないから恐ろしい。他人に対してなら無責任な言葉を吐ける、というわけではない。自分のこととなると深くまで潜りすぎてしまい、海面と海底どちらに向かって泳いでいるのか分からなくなってしまうのと同じ現象である。
ありのままの自分を愛そうにも、愛せたその後が幸せである保証が無い、自分の未来がひどく不安定に思える。私の内側から湧き出てくるものを象り、良いものとして残し受け止めようとも、それが果たして一体何になるのだろう。世に発信しても内に秘めても、社会へ力として還元してもしなくてもそれが私を今よりも幸せにしてくれるものになるのか分からない。

幸せ、幸せ、幸せ。自分の置かれた状況が「幸せ」なものであることを十分理解している一方で、埋まる気配のない寂しさに異様に苦しくなる。”今”に満足できない心の育ちに気付いてしまった。そんなつもりはほんの少しもなかったのに、コップの水はいつでも「あと半分しかない」。

「軸がぶれないね、有言実行だね」という言葉をもらうことがあるが立派なわけでもなんでもない。この状況を打破しなければ朽ちていきそうな心の様が怖いだけだ。”今”に心は満ち足りず、藻掻く指にどうか何かが引っかかりますようにと願ってばたばたしているだけだ。一歩踏み出せた勇気自体に頑張りを認めることが出来なくなっているし、実行の成果が思い描いていたものとイコールなのかもわからない。常に自分の目の前に希望の縮図を掲げておかなければ、私は簡単に迷子になってしまう。軸はぶれない癖に、目と鼻の先を浮遊していたはずの幸せの標はあっさりとただの靄に変わる。

愛のことで言えば、いつも誰かを愛してきた確信があるのに「恋でなければ愛ではない」という世の当然によって、私の”愛”は無かったことにされている。慈しんだり大切に思ったり、この人の傍にいたいという感情を”恋”という言葉で表現できない限り、私の胸に宿る気持ちは未成熟なものと判断されるらしい。潔癖と評されることもあるから、他人を受容出来ない性格上の問題として人の眼には映るようだ。「恋することができる」前提で世界は進む、だから誰かが私に向けてくれる愛情を同じ温度で受け止められない場合、それはイコール拒絶と理解されてしまうことが多い。相手の隣に座り続ける権利をその場で失うこともある、けれど致し方ないともいえるのだ、相手が傷ついてしまったのであれば私に居座る権利はない。「本当はもっと深入りしたいしあなたの傍にいたい」という思いは、私の持つ言語では誠意として相手に伝わらない。好意にフリーライドする都合の良い女と思われるのも悲しいので、あえて「あなたは恋愛対象外よ」というポーズをとることになる。こんな私でよかったら、この先もあなたの横を歩かせてほしい。そういう気持ちに蓋をして、私はひとりで歩ける「かっこいい女」を纏っている。

自粛のご時世に入ってから急激に愛してしまったものの一つにMAMAMOOがある。彼女たちのスタイル・価値観・歌詞全てに身を預けてしまいそうな感覚になった。私が言うまでもなく彼女たちは超かっこいい。ステージ上で「HIPに生きなよ」と歌ってくれているときもそうでないときも、「個性特性に関わらずあなたたち全員最高だよ」と言ってくれている気分になる。


才能にあぐらをかけば輝きは長続きしないが、人の心を揺り動かし続ける人はやはり努力を惜しまない人なのだと思っている。キラキラの裏側が余すところなくキラキラしているわけもない、表舞台に立つということは覗かれたくない一面までを矢面に立たせることでもある。悩み事を自身の中で完結させられる私とは違って、彼女たちには正体の分からない何者かからの評価が常に伴う。それでも「見せてくれる」のだ。何に苦しむのか、何を伝えたいのか、何を求めているのか。どこにいようともどんな生き方を選んでいても同じように悩むことはある、それでも起き上がって息をして前に進んでいこうと、そういう姿勢を見せてくれることに私はとても、とても救われる。

ファサが歌う「Maria」の歌詞の意味、良ければ調べてみてほしい。

私の中に巣食う不安や寂しさが消える日は来ないのかもしれない。泳げど泳げど水平線に辿り着くことが出来ないように、未来は常に更新されていく。理想的な未来と呼べるものが私の掌に収まることはきっとない。だから今この瞬間を愛する覚悟を持ちながら、正解のない人生に食らいついて生きていく。それしかないのだ。何度自身に問いかけても、今はこれ以上の答えが出せない。「恋が欠けた人」でも「身の丈に合わない将来を欲する人」でもない私を生きていきたい、だから”不足の思い”を燃やして滾らせ踏ん張らなくてはいけない。かっこよくともかっこ悪くともどちらでもいい、自分にだけは自分の姿を曝せるようになればそれでいい。

寂しいから、強かった。
最後そう思える自分でいられたらと願う。






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