#59 少林寺拳法に見た剣道との違い
私の娘2人は、10年ほど前まで少林寺拳法を習っていました。
年齢でいうと、長女が幼稚園年長から中学2年まで。次女が幼稚園年少から小学6年までです。ちなみに、長女のほうは大学に入学してから部に入り再開、現在継続中です。
私自身が剣道をしているわけですから、当然子どもたちにも…という期待もあったのですがそれは叶わず。それでも武道を始めてくれたのでよかったなと思っていました。武道だから得られるものは、剣道とも共通の部分があるはずだからで、実際そのとおりだったといえます。
しかし、少林寺拳法の世界には、剣道と大きく違うものがありました。
昇段(昇級)審査が違う
■幼稚園児も学科試験
まず、昇級・昇段審査の内容です。
「見習」から始まり、8級…3級…1級、初段、三段…と進んでいくこととなります。
驚いたのが、幼稚園児として初めて挑戦する8級の審査から学科試験が課せられていたことでした。幼稚園児は免除ね、なんてこともなく原稿用紙を事前に与えられ、課題に対する回答や意見を自筆して提出することになります。
幼稚園児でも特例はありません。適切な言葉を選び、論理的に記述しなくては不合格となります。
では、子どもたちはどのように学科を勉強するのでしょう?
入門時には共通の教本が配付されます。少林寺拳法において学ぶべきことから基本動作の細かい点まで、子ども向けのものにはイラストが巧みに用いられ、わかりやすく書かれています。これを読み込みながら日々の稽古に臨み、審査にも挑戦していくことになります。
■半日以上を費やす実技試験
実技試験は、数人の受審者に対し、一人の審査員がつき、細かく基本動作などを確認していき、半日〜丸一日の時間を要していました。私は8級から初段までの審査を見学することになりましたが、いずれも同様の流れでした。これが高段位になると、実技と学科に面接試験が加わるのだそうです。
初心者も入賞できる?試合の違い
■相手とは勝負しない
娘たちは、試合にも何度も出場しました。
この試合にも剣道と大きな違いがありました。それは試合の内容が、相手とたたかわずに演武の質を競うということです。
2人一組の演武、1人で演武する「単演」、3人以上のチームで息をそろえながら演武する「団体」があります。部門は、段位や年齢で分かれるのが主だったと思いますが、親子や夫婦でペアを組んで出場できる「家族の部」はユニークだなと感じました。
部門が分かれると、あとはそのときの演武内容が絶対評価により採点されますので、その部門の中で段位が上の組が勝つとは限りません。黒帯の組をそうでない組が上回ることも珍しくありません。
こうなってくると、相手と勝ち負けを競うというよりも、自分自身の力を最大限発揮することに集中するようになります。
(注:運用法の部といって、防具を身に着けて相手と戦う部門もありますが、メインは演武です)
剣道の大会は相手との力量の差がストレートに出てしまうこともありますが、少林寺拳法の大会は、上位進出へのチャンスは多くの人の手にあることになります。
道場が開けない?
■指導は資格が必要
剣道であれば町道場、地域の剣友会、部活動などがあります。
歴史のある団体もあれば、自らの理想を後進に伝えていくためにと、新たに自分で団体を立ち上げることもできるでしょう。
指導者はさまざまな事情から、その団体の年齢、経験、段位が上位の方が教えることになりますが、指導のための資格などもないため、そのレベルは千差万別です。
剣道をしていると「●段をお持ちなんですね。ということは先生になって道場も開けるんですか?」というようなことを訊かれることがありますが、実際には●段だから…ということではないのは剣道をしていればご存じのとおり。言ってしまえば、レベルに関係なく、指導者を自称したそのときからその人は指導者になります。
一方、少林寺拳法は、地域にある道場=道院の開設には、本部の許可が必要です。資格なくしては少林寺拳法の名を語った指導は許されない仕組みになっています。これはもしかすると競技人口の少なさ故にかなうものなのかもしれませんが、その徹底した教育体系は、口伝ありきの剣道界にそこそこ長く身をおく自分としては舌を巻くばかりでした。
剣道でも全剣連による指導法が定められ、伝達講習なども行われ、指導員の資格も存在はしています。しかし、それに強制力のようなものはなく、資格を得ずとも講習会に参加しなくても指導することは良し悪しはともかくとして可能です。
これを受けて、少林寺拳法が正しく剣道がそうではない、とは言い切ることはできないし、そのつもりはありません。
ただ、どうしても剣道の指導は独自の解釈やアレンジが加わってしまうところがあります。その利点もあると思いますが、体系として不十分なために、剣道として必要のない動作が若い世代に広まったり、本来の目的を果たさない道具が流行することにつながります。
少林寺拳法の現在の状況を見返してみると、さまざまな問題はあるようです。しかしながら、勝利至上に走らずに、より多くの人に人を育てることに主眼を置いている武道であることを導入から理解し、学びを深めることができるようにあらゆることを体系化している点については、長く剣道を続けている身としては考えさせられます。
今回のあとがき
物事の普及に必要な要素に「合理化と効率化」が挙げられます。
しかし、それらは骨格が明確になっているからこそ成り立つものです。骨格すら曖昧なままに進んでいった先にあるものは変容であり、もしかすると衰退につながる可能性があります。
古いものほど非効率でつまらないものだと思われがちですが、剣道の場合、案外そうとは言い切れません。長く続ければ続けるほど、原点にある基本こそが最も効率的だということに気付くことになります。
剣道の世界において脈々と受け継がれてきた、剣道ならではの伝統があります。私は伝統は守るべきだと考える派です。その伝統は、上辺だけでなく、中身をよくよく吟味していくと、人が生きるために大切にしていきたい教えがありますし、剣道具を見れば先人の知恵と技術が豊富に詰まっています。
もし、古くからあるものを守っていくということに嫌悪を覚える向きがあるとすれば、それは伝統ではなく、そこから派生してしまった「風習」へ嫌悪ではないかと思うのです。
私はいま、指導をする立場になく、自分のことばかりを好き勝手にこなしている状態です。身を粉にして後進の指導にあたる先生方には敬意を評するばかりです。
さまざまな思想や指導法が混沌とする中で、確固たる信念を持ち、正しい剣道を普及しようと尽力する先生方を、出来うる限り応援していきたいとは思っています。
剣道を始めて40年以上が経ちましたが、まだまだ知らないことの方が多いなと感じるこの頃です。
(おことわりとおねがい)
私自身、少林寺拳法のことはほとんどわかっていませんので、今回の投稿の内容に誤りがあるかもしれません。
もしこれをお読みになり、誤りに気付いた方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。