昔の友人と話すと昔話に花が咲くのは,今の自分達がどれだけ変わったのかを認識したいから
こんにちは.Keeth こと桑原です.
今日は実に一年振りくらいに,とある大学の友人とサシで飲んだ.学部生の頃からよくつるんでいた奴で,院生になっても卒業してからもちょこちょこ会って飲んでいた仲でもある
いざ会ってみると,時間軸から見ると久し振りだが体感ではそうでもなかった.Twitter などの SNS での絡みもあったからかもしれないが,ある種の家族に近い感覚も覚えた.
ちなみに私の住んでいる東京ではなく,彼が住んでいる(大阪〜京都のどこからしい)ところの近くで飲んでいたため,新大阪のホテルに泊まりつつこの記事を書いている.
さてタイトル回収だが,彼と話す時は大抵が昔話と今の仕事の話になる.これは他の多くの方も同様かと思うし,実際にその事例をよく耳にする.
若い頃は「そんな事ないだろう」とか「他に話す事あるやろ」と思っていた…いや今も会う前は思っている.しかし現実は違っており,ご多分に漏れることはなかなかないのである.
何が言いたいのか?
人は同じ事を度々やる
歴史は繰り返される(話がデカい)
これらの言葉への共感はとても強いが,こういう事が言いたいのではない.言いたい事は
と言う事.皆さんお気づきの通りタイトルなんだが.振り返ってみたらそう感じた.
日々の生活を経てどれだけ成長したのか?どれだけ退化したのか?どれだけ変わったのか?を再認識,再分析したいのだと.それは自分だけでなく目の前の人に対しても同じ関心を持っているんだろうなと.
日常生活の中で変化を認識する事はなかなか難しい.特に成長という観点では.それができるなら昔話をしたとしてもそれほど花は咲かないのではないか?というのが今の私の仮説.
※ もちろん体重が増えたとか,白髪が増えたとかはすぐに分かる…(分かりたくはないがw)
ではでは(=゚ω゚)ノ
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日々感じていること・思っていること・考えていること
Keeth Kuwahara が日々の業務・生活の中で, twitter でも facebook でもつぶやかない思っていること, 感じて…
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