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「八葉の栞」第二章 後編


3月28日

第十一節

涼介はノートから視線を上げて、玲於奈の顔を見た。
驚いている。当然だ。この出来事を忘れることなど、普通はありえない。
普通ではない何かが起こっている。これはそういう状況だ。

「これ、本当に私の記憶なの?」玲於奈の目には猜疑の光が浮かんでいる。
リュックの中でモゴモゴと聞こえてきたので、涼介が代弁した。
「間違いないです。ジョシュさんの能力は、人が忘れている記憶まで正確に描写します」

『記憶の雫』はそのときその人物が見たもの、思ったことを書き記す。
そこに忘却や誤魔化しが入る余地はない。
一方で、その人物の偏見や思い込みはそのまま反映する。
ジョシュが記すのは、対象者の純粋な主観なのだ。

「それは俺も保証するぜ。つまりよ、虎岩って野郎は常連客に違いねえ」
「常連ならお店に来たところを捕まえよう」茉莉花が提案をした。
「いや、もう来てねえんじゃねえか?炎上の火付け役なんだろ、そいつ」
真也の言うとおりかもしれない。一同が、次の一手を考えようとしたとき、リュックから丸めた紙切れが飛んできた。ノートの切れ端のようだ。
茉莉花が紙切れを開いた。

「なになに…『放火犯は火災現場に戻ってくるものにゃって、この間読んだ小説に書いてあったにゃす。きっとSNSの炎上も同じだにゃ』だって」
ジョシュの意見も一理ある。玲於奈が龍五郎の存在に気付いていない現状であれば、彼は直接来店し、自らが招いた結果を確認して、ほくそ笑んでいる可能性だって考えられる。

「想像すると胸糞悪いけど、なんかしっくりくんな。やるな、ネコ助!」
リュックが振動し、ゴロゴロゴロという雷鳴のような音が轟いた。
涼介は怒れるジョシュをリュック越しに撫でた。
また、お店から1組が退店した。今はもう、涼介たちしか客はいなかった。

玲於奈は無言で立ち上がると、残ったスタッフを帰し、重い足取りで厨房に向かった。
つらい状況だ。厨房に入り、ひとりになりたかったのかもしれない。

玲於奈が作ってくれた料理をいただきながら、涼介たちは次のアクションについて話し合った。
「もっと龍五郎さんの情報が必要ですね」
「そうだな。SNSの写真って加工とかすんだろ?よく知らんけどよ」
「うーん。多分そうじゃない」
多分という枕詞を置きながらも、茉莉花の口調は断定的だった。
「玲於奈さんは『存在の力』が強くて、虎岩のは弱いんだと思う」
「あん?どういうこった?」

茉莉花の説明はこうだ。
『存在の力』の強弱は他者による記憶の定着にも影響する。
また、『存在の力』が弱い者は強い者に敏感だが、強い者は弱い者を気にかけないことが多い。気にかけていない人物のことは、認識が薄いため、記憶にも残らない。

真也と玲於奈にとっては『存在の力』という概念自体が初耳だったが、彼らは単純に『存在感』みたいなものだろうと理解した。

「私が…彼をちゃんと見ていなかったということ?」
玲於奈は目を伏せ、小さな声で呟いた。彼女の受けたショックの大きさが、涼介たちにも伝わってきた。茉莉花は気にせず続ける。
「それをこれから確認しよう」
そう言って、『八葉の栞』を発動する。

その気配を感じて、ジョシュがリュックから飛び出てきた。
「狭かったにゃー!やっぱりお客さんもういないじゃないにゃすか!なんで出してくれなかったんだにゃ!!」ジョシュはプンプンだ。
「ごめん。忘れてた」
「ふにゃ!マリカはおいどんのこと、何だと思ってるにゃすか!?」
「ペット」茉莉花はあっさり答える。
「にゃんだと!助手にゃろ!?相棒にゃろ!!?」
「落ち着いてください。俺も忘れてしまってて、すみませんでした」
涼介が謝ると、ジョシュは少し機嫌を直した。
「にゃふふ!そんで、どの栞を使うにゃすか?」
「状況を整理しよう」

零れる弱音。鳴り響くスマホ。桃と百合の香り。飲料水。輝く太陽…。
涼介たちは可能性を列挙したが、いずれも有力な情報に繋がる変化とはならなかった。または、結果不明のため『栞』を使うこと自体ができなかった。

何かを見落としている。至極単純な何かを。涼介の勘がそう告げていた。
しかし、その正体がわからない。

突如、真也が叫び声を上げた。
「うおっ!もしかして、俺わかったかもしれねえ!!」

第十二節

真也は隣に座る玲於奈に顔を向けた。
「確認させてくれ。記録の中じゃ日付は10月20日になってる。こりゃ去年のことだよな?」
「うん。1回目の炎上は去年の6月に始まったから、4ヶ月後の10月なら現実と合致してる」
「炎上から4ヶ月後には経営状態がやばかったんだよな。だったらよ、そこまで状況が悪化する前なら、もっとまともに会話できる状態だったんじゃねえか?」
それだ、と涼介は思った。皆一様に頷いた。
「シンヤ!冴えてるにゃ!」ジョシュが涼介の膝の上でぴょんと跳ねた。
店の経営には俺も苦心したからな、と真也は得意げに苦笑いした。

「月を変えるということっすよね。その上で、虎岩さんのことを知っている女性と再び会って話をする…」
それほどの変化を『栞』で起こすことができるのだろうか?
涼介の疑問に、茉莉花が答えた。
「別の月にも、玲於奈さんがあのベンチにいて、女性がそこを通る可能性があれば、多分できる」
「なるほど!いけるかもしれないっすね」
「うん。やってみよう」

茉莉花はノートに『月の栞』を挟み、玲於奈の記録に光を与えた。

玲於奈の記録(月の栞)

第十三節

『月の栞』使用前の記憶

8月23日。『ハーモニー食堂』のSNS炎上から2ヶ月が経った。
午後4時。私は瑞善寺川緑地のベンチに座っていた。
子供の頃から、落ち込むことがあるとこのベンチに腰かけて過ごしていた。この癖は、大人になった今も変わらない。

この2ヶ月間で客入りは徐々に減ってきている。スタッフの士気にも影響が見られる。看過できない状況だけど、炎上を収める手立てがない。
今はただ耐えるしかない。

「このままじゃやばいな…」
攻められ続けてるだけじゃ、ジリ貧になるのは目に見えてる。私は守ることが苦手なのだと、今回の騒動で初めて気付いた。

攻めたい。
私の店を酷評したやつらも、私の悪口を書いて、過去のことで騒ぐ連中も、誰を敵に回したのか思い知らせてやりたい。徹底的に懲らしめてやりたい。

自分で思っていたよりもずっと、思い詰めた顔をしていたのかもしれない。
道行く女性が「大丈夫ですか?」と、声をかけてきた。
彼女からはふんわりと桃の香りがした。

可愛らしい、小柄な女性だった。
男性ウケが良さそうな、ゆったりした癒し系だ。
気に入らない。普段なら話したくないタイプだけど、今はやり場のないこの苛立ちを、誰かにぶちまけたかった。

「ちょっと話、聞いてくれる?」私は訊ねた。
彼女はにっこり笑って「うん。いいよー」と答える。
そして、少し歩こうと言って、小橋を渡っていった。
私はその後に付いていった。主導権を握られているような感じがして少し癪だったけど、欲望を発散させるために必要なステップなのだと割り切ることにした。

橋の先、先程まで座っていたベンチの向かい側では、新緑鮮やかな桜並木が歩道を彩っていた。青々と茂る葉の集まりが、広い木陰を作り上げている。彩りよりも、今は涼しさがありがたかった。

女性は水鏡桜の前で足を止めた。ここが終点のようだ。
子供の頃、落ち込むとよくここに来たんだと彼女は話した。
私にとっての、あのベンチのような存在なのかもしれない。

水鏡桜には、記憶を浄化する力がある。そんな、古い言い伝えがある。
私はそんなの全く信じていなかったけど、確かにこの大樹を眺めていると、心が落ち着いてくるような気がした。しばらくすると、徐々に怒りが収まっていく感覚を覚えた。不思議だ。

私は自分の店のSNSが炎上していること、私自身もひどく言われていることを打ち明けた。さっきまでの攻撃性はどこかに消え、むしろ同情を誘うような話し方になった。そう、私は哀れな被害者なのだ。

「私は裕福な家に生まれ育った。何の不自由もしたことなくて、欲しいものは何でも手に入れてきた」
私はすらすらと話し始める。
「人に言うことを聞かせるのが好きだった。気に入らないやつは大体いじめた」
女性が無表情な視線で私を見る。ドン引きしているのかもしれない。
だけど、ここまではただの前フリだ。

「小学生の時にはもう頂点を取ってて、やりたい放題やった。でも、そんな私にも手に入らいないものがひとつだけあったの」

清宮涼介だ。彼はどのグループにも属さず、誰とでも別け隔てなく接して、誰からも好かれていた。彼は誰のことも特別視しなかった。
どんなことをしても、私は彼の気を引くことはできなかった。涼介はモテたから、私は彼に好意を持つすべての女子をいじめ尽くした。

いつかは振り向いてくれるって信じていたのに、彼は事件に巻き込まれて、白桜町から引っ越してしまった。それ以来、何をしても気持ちが満たされることはなかった。
「運命は残酷だなって、そのときは思った」
うっすらとした酩酊感が脳に広がる。

「社会に出て数年が経ったときかな、なんかね、これまでやってきたことがとても愚かなことだったんだって、気付いたの」
大きなきっかけがあったわけじゃない。ただ、なんとなく目覚めたのだ。
「いじめなんてしてきたことが恥ずかしくなった。償わなくちゃいけないんだって強く思ったんだ」

猛省した私は、即座に脱サラした。上場企業での仕事を辞めて、誰もが楽に過ごせる場所を作ろうと思って、『ハーモニー食堂』を立ち上げた。
時々変わった人も来るけど、今の私は誰にでも優しく接することができる。誰にでも、同じ笑顔を振りまくことができる。

「だけどね、私わかってなかったんだ。今回SNSで吊るし上げられちゃってさ、私も人にこんなひどいことをしてきたんだなって、痛感した」
ああ、ひどいことをした。反省してる。こんなに反省してるのに、まだ炎上は続いている。この世は不条理だ。

女性の黒目がちな大きな眼は今、きっと同情に満ちているだろう。
そう期待して彼女と目を合わせると、そこにはぞっとするような冷酷な瞳があった。その瞳は、軽蔑とも憎悪とも形容しがたい負の感情を宿し、まるで星ひとつない漆黒の夜空のように深く、身が竦むほどに暗かった。

「甘いんだよ」と彼女が吐き捨てた。

第十四節

「浅い。浅はかすぎる」
言い返したい。だけど、言い返せない迫力が、彼女にはあった。
「どれだけひどいことをしてきたか痛感したって?どこが?こんなことで、自分がしてきたことをわかった気にならないで」
腹立たしくなる生意気さだ。普段なら怒りを覚えるはずなのに、彼女の悲痛な面持ちが、胸を締め付けてくる。

女性は自身も子供の頃いじめを受けていたと語った。
彼女は生まれつき身体が弱かったらしい。誰にも相談をすることができず、ただただ耐えるだけの日々を過ごしたのだという。
終わりの見えない地獄の毎日。心ない陰口。暴力。恐喝。頭の中で復唱することすら躊躇われるような、非道の数々。

記憶の奥底に眠る、人でなしの証左。
身に覚えがある。彼女から聞いた話は、かつての私の手口に酷似していた。客観的に聞くと、まさに鬼の所業だ。吐き気がする。心が苦しくなる。
なのに、私は目の前の女性を思い出せない。
思い出せもしないのに、彼女の言うことを聞き入れなくてはいけないという強迫観念が、私を支配する。

「私がどれほどの屈辱を受けたか、どれほどの絶望を感じてたか、あなたにわかるの!?」
何人かの通行人が、私たちを訝しげに覗き込む。私は身動きひとつ取ることができなくなっていた。
「頭がおかしくなりそうだった。爪を噛む癖がついて…ボロボロになった爪をネタにまたバカにされた」
私は女性の指先を見た。
彼女の爪は今もボロボロだ。彼女の傷はまだ癒えていないんだ。
不意に涙が零れた。遅すぎる、後悔の涙だ。

女性は呼吸を整えて、私の涙を見つめた。
嘘みたいな、浅い涙だと思っているのだろうか。
私の中では、本心から生じた後悔の発露だ。
だけど、どこまで深く考えた末に辿り着いた感情なのか、自分ではもうわからない。浅いと言われたら、きっと否定できない。

女性は母を早くに失くし、父とはほとんど話すことができない状態だったという。孤独だったのだ。なぜ、この世はこんなにも不公平なのか。
「心が病んじゃったのかな。私、自分の中で、架空の友人を作ったの」
あのときは本当にいると思ってたんだけどねと彼女は言った。

解離性同一性障害と呼ばれるものだと思う。こんなときのために蓄えた知識のはずなのに、困った誰かを助けたくて覚えたことのはずなのに、今の私は何ひとつ言葉にすることができない。

彼女はその『友人』と文通を始めた。
夜寝る前に手紙を書くと、朝起きたときに返事が置かれていたらしい。
その光景を想像し、堪らず嗚咽を漏らした。

「水鏡桜の言い伝えも、『彼女』に教えてもらったの。それからは、『嵐』が去った後はここで夜まで過ごすようになった」
嵐が何を指すのか、考えるまでもなかった。
考えたこともなかった。
いじめられた誰かが、そんな風に考えていたんだってことを。

「ある日、ひとりの男の子がいじめられてる私をかばってくれた。初めて、いじめから救ってくれる人が現れたの」
彼女の目には懐かしさがこもっていた。遠くを見てる。
ここではない、どこか遠くを見ている。

その男の子は彼女が10歳のときに同学年だった少年らしい。少年はいじめを見かけては彼女を助け、ふたりは水鏡桜の下で交流を深めるようになった。それを語る女性の頬に、柔らかな熱が灯った。ここはふたりの思い出の場所だったのだろう。

第十五節

「また別のある日、いじめっ子たちに持ち物を捨てられたことがあったの。私がその日に学校で発表した『将来の夢』が気に入らなかったみたいで…。物を捨てられるのはめずらしいことじゃなかったんだけど、そのときは大切にしてたハサミを失くしちゃって…」
それは女性の母親の形見だった。
彼女は必死に形見のハサミを探したが、どれだけ探しても、見つけることはできなかった。少年も、その姿を見かけて手伝ってくれたが、ハサミは最後まで見つからなかった。

彼は彼女の『友人』と文通のことを聞いていた。
そして、彼女が形見のハサミを愛用していることを知っていた。
パニックになりかけている彼女に、少年は自身の宝物であるレターナイフを渡した。

「これだよ」
女性がレターナイフを見せてくれる。
通常のレターナイフよりもかなり厚みがあるその刃には、美しい桜の花びらが掘られていた。夏の光に反射して、花びらが浮かび上がって見える。
実用品というよりも、装飾品としての趣を感じた。

「彼は私に、お父さんにいじめのことを打ち明けるべきだって、何度も言い続けてくれた。本当に、何度も何度も、親身になって」
良い子だったのだろう。思いが伝わったのか、女性はこくりと頷く。
「うん。本当にいい人。彼は私の恩人で、私の初恋の人。素敵な人だった。私は彼からたくさんの勇気をもらった」
女性は深呼吸して、言葉を続けた。

「私は今でも彼のことが好き。彼のことだけを永遠に愛してる」
女性の瞳に光が浮かぶ。月を映す湖のように、清く澄んだ瞳だ。
でも、彼女はもう私を見ていない。彼女の意識はまだ、過ぎ去った時の中に閉じ込められているのだ。それはどれほど悲しいことだろうか。
また、涙が溢れ出る。こんなことがあって、いいわけがない。
こんなことはもう、決して繰り返されてはならない。

「私は、どうしたらいい?」
自分で考えろと返されるかもしれない。
それでも、彼女に聞くのが最も正しいことだと思えた。

彼女は一瞬の躊躇いの後、こう答えてくれた。
「炎上の犯人は虎岩龍五郎。彼はあなたのお店に毎日来てる。でも、いつも違った変装してるから、意識して見てないと気付かないかも」
変装?なんでそんなことを?でも、それは彼女に聞くことじゃない。
自分の目で向き合って、自分の頭で考えていくべきことだ。

「ありがとう」
私は今度こそ、過去の自分と向き合っていく。
償いをするなんて、虫の良いことはもう言えない。
だけど、嘘のない人生を歩んでいきたい。
言葉にはしなかったのに、女性は私の決意を受け止めてくれた。

「頑張って」
そう言って、彼女は立ち去っていく。
その背中を見つめながら、私は彼女の傷が癒える日が来ることを願った。
都合が良いと言われたって構わない。
彼女に幸せが舞い降りることを、心の底から天に祈る。

3月28日

第十六節

玲於奈の記録を読み終えても、一同は言葉を発することができなかった。
誰もが、『栞』により変化した記録の内容に驚愕していた。
玲於奈と涼介にとっては、その驚きも一入だった。

玲於奈の心境は複雑だ。認めたくない自身の本性。涼介への思い。
それらが赤裸々に綴られた彼女の記録は、もはや愚の告発だった。

しかし、玲於奈はそんな自分と向き合っていた。
そうしなくてはならないという意識が芽生え始めていた。
記録の中で語られた女性の人生が、彼女の認識を改めたのだ。

涼介は玲於奈の記録の中に登場した女性がはるりであると確信していた。
真也のときとは違い、玲於奈はしっかりとはるりを見ていた。彼女の特徴を見事に捉えた描写だった。
彼は自身の手の甲を見た。確かに、はるりの爪はたまに傷付いて見えたことがあった。彼女は爪が弱いのだと言っていて、彼はそれを鵜呑みにしていた。彼にはそれが噛んだ跡のようには見えなかった。爪やすりなどで整えていたのかもしれない。まるで、彼にその癖を知られまいとするかのように。

はるりが愛する人。宝物のレターナイフを譲った少年。
彼女は彼のことだけを愛し続けていると言った。そして彼女は涼介の前から姿を消した。ここから導き出される結論は、決して明るいものではない。

重苦しい沈黙を破ったのは、真也の愛しきパンクスピリットだった。
「よう、虎岩は変装してるみてえだけどよ、毎日ここに来てんだよな?明日捕まえようぜ」
「うん。そうしよう」茉莉花も同意する。
涼介と玲於奈、もちろんジョシュも同意見だ。
彼らは龍五郎捕獲計画に考えを巡らせた。打ち合わせは23時まで続いた。

「大体決まりましたね。早速、明日決行しましょう」
彼らが立てた計画は至ってシンプルだ。
龍五郎の顔を記憶した玲於奈が、彼の来店を確認したら他メンバーに連絡を送る。お店が混み合っていたなら難しい対応となるが、今は最大でも同時に三組程度しか入らない。玲於奈の接客能力なら十分現実的だ。

店内で揉めるわけにはいかないので、彼がお店から出たところを尾行する。ジョシュはネコだけに、細かい路地裏に至るまで、白桜町の地理を熟知している。龍五郎の動きを先回りし、どこかの袋小路に追い込む。
あとは直接対決だ。

涼介は当初、龍五郎の行動パターンを分析して、それを利用した緻密な罠を仕掛けることを考えていた。しかし、真也の『男なら正面から勝負だ!』という心意気に押された。
涼介が真也の提案に同調したのは、はるりへのもどかしさから生じた反動でもあった。だが、彼自身はそのことに気付いていないかった。

茉莉花は流れに身を任せていた。ジョシュはやる気満々だ。
「よーし!絶対捕まえにゃすぞー!!」

3月29日

第十七節

『虎岩がきた』
茉莉花が玲於奈からのメッセージを受信したのは、翌日の正午だった。

予想はしていた。
龍五郎は『ハーモニー食堂』の衰微を実感したいのだ。
自分の影響力を感じて、悦に浸りたいのだろう。
そのためには、炎上前にお店が最も盛り上がっていた、ランチタイムに足を運ぶのがベストだ。

「ふざけてる」
茉莉花はジョシュを抱えて階段を降りながら、涼介に連絡した。
彼はもしもの事態に備えて、『ハーモニー食堂』の斜向かいにあるファーストフード店で待機していた。

『今日は全身黒尽くめ お客さんは彼の他にふたりだけ』
玲於奈から2通目のメッセージを受信したとき、一同は『ハーモニー食堂』の前に集まっていた。真也も来ている。彼も暇ではないはずなのに。
人情家だなと茉莉花は感心する。

その15分後、黒尽くめの男がお店から出てきた。龍五郎だ。
鼻の下に不自然はヒゲを蓄えている。あれが今日の変装要素なのだろう。
彼は商店街を出て、東側の住宅街を歩き出した。

涼介のマンションがある方角だ。ここで涼介とジョシュの土地勘が活きた。
茉莉花たちは龍五郎を挟撃し、袋小路に追い込んだ。
ここまでは拍子抜けするほど順調だった。

一同に囲まれた虎岩は、身体を細かく震わせながら、虚勢を張った。
「何者だ?我が旅路を妨げるその蛮行、度し難い狼藉だ」
なんだ、こいつ…。茉莉花は身震いした。
「リアル中二病にゃすな!」ジョシュはなぜか少し嬉しそうだ。
「ネコが喋っただとおおお!!?あっ、あり得ぬう!!」
「ふふん!観念するにゃす!」
龍五郎のリアクションに満足げに、ジョシュは意気揚々と名乗りを上げた。
「善を助け、悪を挫く!正義のネコ、ジョシュ参上にゃす!!」
「おのれ!化けネコめ!成敗してくれる!」
龍五郎はどこからか刃渡りの長いナイフを取り出し、右手に構えた。
「うおっ、危ねえ野郎だな、こいつ…」真也が身構える。
茉莉花も警戒の体勢を取った。こんなことで怪我してたまるものか。

どこか遠くで、鳥が羽ばたく音が聴こえた。
場に緊張が走る中、誰もが予想していなかった事態が起こった。

「うう…あ…ああ…うううっ…」
涼介が地面に両膝をついた。頭を抱えながら、呻き声を上げている。
彼の大きな身体が、ガタガタと震えだした。全身から大粒の汗が吹き出している。彼は異常なまでに怯えていた。

茉莉花はかがみ込んで、彼の肩を抱いた。
顔と顔が近づき、涼介の表情が見えた。
底知れぬ暗い恐怖に支配され、端正な彼の横顔がひどく歪んでいた。
負けたらダメだ。動かなくちゃダメだ。彼は震える唇でそう呟く。

思わぬ事態に混乱が広がる中、涼介と面識がない龍五郎がいち早く動いた。
彼はナイフを持ったまま、勢いよく駆け出した。涼介の脇を抜けていこうとしている。茉莉花と真也の反応が少し遅れる。

涼介は龍五郎の接近を敏感に察知した。
勇気を奮い立たせ、絡みつく恐怖を振り払った。
「うあああああ!!!」
涼介は咆哮を上げ、龍五郎に立ち向かった。
「おい!」やめろと続く真也の言葉も間に合わない。
このままだと、涼介は刺される。確実に。真也の額を、嫌な汗が伝った。

「させないにゃ!」
ジョシュは龍五郎に向かって凄まじい勢いで跳躍し、身体をドリルのように回転させた。
「食らうにゃす!ネコ百裂拳!!」
無数に飛び交う前足の乱打が、龍五郎の身体を吹っ飛ばした。

「ぐぎゃー!!」
龍五郎は電信柱に背中を打ち付けて、気を失った。

第十八節

龍五郎捕獲から数時間後。一同は藤堂探偵事務所に集まっていた。

騒ぎを聞きつけた真桜も、涼介を心配して、彼に寄り添っている。
真也もその場に残りたがったが、さすがに店に戻ることになった。

「さっきはすみませんでした」涼介は開口一番、謝罪した。
彼は子供の頃、通り魔に胸を刺されて以来、先端恐怖症になっていたことを明かした。

茉莉花は、初めて涼介とジョシュと一緒に『カフェ憩』に行くことになったときのことを思い出していた。あのとき彼は、確かに包丁を避けていた。

「克服できてはきてたんすけど、未だに尖ったものを向けられると…身体が竦んでしまいます」
涼介は茉莉花が入れたココアを一口飲んだ。甘い刺激が、じんわりと身体に広がっていく。

「無理させてごめん」今度は茉莉花が謝る。
「いえ。情けないところを見せてしまって、すみません」
「情けなくなんてないにゃ!人には皆、得手と不得手がある。だからこそ、チームとして助け合っていくんだ…って、この間、泣いた本に書いてあったにゃすよ!」
ふたりの優しさが、涼介の身に沁みた。
「はい。ありがとうございます!」彼はいつものように明るく微笑んだ。

「おいおいおいおい!何、仲良しごっこやっておるのだ!たわけが!」
文句を言ったのは、縛られて床に転がされている龍五郎だ。
「我をこの纏繞の縄から解放しろ!こんな拘束、犯罪だ!貴様らに天の裁きが下るぞ!」
「黙れ、ゴミ」
茉莉花が冷たく龍五郎を見下す。
「そうだよ。涼介くんを刺そうとしたんでしょ?そんなの絶対ダメだよ」
真桜は怒っていた。その姿が、涼介の目にはいつかのはるりと重なる。
やはり彼女たちは、とても似ている。

一方、龍五郎は少し意外な反応を示した。
「ふーむ。そちらの小さき天使は、そこのひょろい女狐と違って婉然だな。我が嫁として迎え入れることに毛ほどの躊躇いもない」
「キモっ」
「うざっ」
「◯◯ろ!」
「◯◯◯しまえ!」
茉莉花と真桜に散々言われた龍五郎は、心を深く傷つけられ、蹲った。
「もうすぐ玲於奈さん来るから、あんたは黙ってそこで転がってて」

しばらくして、玲於奈が事務所を訪れた。
龍五郎はバツの悪そうな顔をしながら、自分の行動を謝罪した。
彼は先の涼介たちのやり取りに、少なからず感化されていた。

「どうして、あんなことしたの?」
玲於奈がそう訊くと、龍五郎は素直に自白した。

龍五郎はこれまで多くの女性に邪険にされてきた。
だが、たまたま立ち寄った『ハーモニー食堂』で、運命の出会いを果たしたと彼は感じた。玲於奈に優しくされ、彼はころりと惚れてしまった。
しかし、これは玲於奈にとっては何ら特別な行為ではなく、店に来る客には皆同じように接していたのだ。要するに、彼の一方的な思い込みだった。

ある日、玲於奈は龍五郎よりも他の客を優先して接客した。
彼は深く傷付き、彼女を貶めようと心に決めた。
これがSNS炎上の動機だった。

「悔しかったのだ。そなたと結ばれる未来を夢見た我の思いを、そなたは…そなたは踏みにじったのだ!!」
龍五郎の目には、悔し涙が浮かんでいた。

茉莉花は「アホか」と言いかけたが、龍五郎に歩み寄っていく玲於奈の姿を見て、口を止めた。彼女はミノムシのように転がる龍五郎の前に立ち、片膝をついた。

「ごめんなさい。私の配慮が足りてなかった」
「そなた…」
「私はきっと、自分が見たいと思うものだけを見てきた。だけど、それじゃダメなんだよね」
これからはしっかりと現実を見ていきたい。その上で、皆がくつろげる場を提供したい。そのためには、様々な知識や感性が必要だと彼女は言った。

「あなたのこともちゃんと知っていきたい。お願い。力を貸して」
玲於奈の頼みに、龍五郎は頷いた。
「快諾しよう。一応問うが、これは我への求婚…ではないのだな?」
「えーと、違うよ。そういうのじゃない。全然」
「理解した。そういうことなのだな…。よかろう。そなたに力を貸そう」
龍五郎は最後にぼそっと、頼りにしてくれと呟いた。

「一件落着っすね」と涼介が言うと、拘束を解かれた龍五郎が頭を下げた。
「貴様にもすまぬことをした。我が非礼を許してほしい」
「全然問題ないっす!俺も…自分の弱さと向き合う良い機会になりました」
「お主…まさに太陽のような漢だな」
龍五郎は感嘆の息を漏らし、涼介と熱い握手を交わした。

「涼介さん」茉莉花が涼介の肘を突く。彼はこくりと頷いた。
茉莉花が言わんとしていることが、涼介にはわかっていた。

「龍五郎さん、協力してもらいたいことがあります」

第十九節

玲於奈の記録の中で、はるりは何らかの方法を用いて、龍五郎のSNS攻撃を止めたことが示唆されている。
茉莉花は、はるりが直接龍五郎に接触したのではないかと睨んだ。
彼女には、他に龍五郎とコンタクトを取る方法がないと思われたからだ。

ジョシュは龍五郎の記憶を掬い、それが事実であることを確認した。
だが、その確認には、多大なる犠牲が伴った。

邪念に満ちた龍五郎の記録を読むことは、地獄の苦しみだった。
書き記すことも悍ましいエゴが、そこにはあった。
彼らは『八葉の栞』による変化内容を確認するために、二度三度と繰り返し悪魔の手記を読んだ。すべての確認が済んだ頃には、茉莉花たちは精神力は底を尽きていた。

龍五郎の記録から判明した内容はこうだ。

  • 昨年の10月にはるりが龍五郎のもとに直接訪れたこと。

    • はるりは龍五郎に玲於奈への攻撃を止めるよう訴えた。

    • その時点で龍五郎の興味は玲於奈からはるりに移った。

  • 龍五郎が執拗にはるりをストーキングしていたこと。

    • 龍五郎は朝から晩まではるりを監視していた。

    • はるりは年明けまで仕事をしていたが、それ以降は出勤していない。

    • 彼女は商店街を中心に、白桜町や近辺の様々な人たちと積極的に会話していた。

  • 龍五郎がはるりの記憶を失ったのは、3月4日の深夜だったこと。

「もうダメにゃす…。おいどん、人間不信ににゃりそう…」
ジョシュは外の空気を吸いに行くと言って、事務所を出ていった。
「うえ…私もしんどい」茉莉花もダウンした。

涼介は、自身の婚約者がストーキングされていたという事実に大きな衝撃を受けていたが、今は必死にその感情を押し殺していた。
ただ、「今度やったらマジで承知しないっすよ」と、きつく釘は刺した。

「あんた、本当に更生しなよ?」
玲於奈は早くも龍五郎に協力を求めたことを後悔しかけていたが、龍五郎は意外にも猛省していた。
「我も、己の歪みに辟易した。邪念や煩悩とは本日をもって決別することをここに誓う。本当に申し訳ない」
彼は一同の前で再び詫びた。罪を憎んで人を憎まず。涼介は頭を冷やした。

玲於奈は真桜に、『ハーモニー食堂』から『カフェ憩』へのスイーツの提供を打診した。毎朝、一定数のスイーツを『カフェ憩』に卸すという、店舗間の提携のアイデアだ。玲於奈なりの感謝の気持ちだろう。
真桜は喜んだ。茉莉花はもっと喜んだ。

店同士の繋がりは、きっと商店街の強みに繋がっていく。
白桜町にまた、小さな幸せが芽吹いていく。

真桜がお店に戻り、玲於奈たちも『ハーモニー食堂』に戻ることになった。
茉莉花は「まっ、頑張れよ」と適当な言葉を送った。
彼女にしては、前向きな発言だ。
ジョシュも精一杯の思いを込めて、彼女たちに応援の言葉を贈った。

玲於奈はふたりに礼を伝えながら、涼介を見つめた。
彼からも温かい言葉が欲しかった。

「おふたりならきっとうまくいきますよ」涼介はにっこり笑った。
優しい声、穏やかな笑顔が、氷のように冷たい彼の眼差しを引き立てた。
玲於奈は瞬時に理解した。
彼は怒っている。無意識に、怒っているのだ。
頭では状況に納得している。でも、彼の心は私を許していない。
私はきっと、取り返しのつかない何かをしてしまったのだ。
玲於奈はそう感じた。

涼介は何も言わない。怒りも非難も口にしない。
それは彼の理性が為せる業だ。

玲於奈がしてきたことの報い。人を傷つけてきたことへの罰。
はるりの傷が癒えないように、玲於奈もまた、重い罪の枷を背負って生きていかなくてはいけない。

もう一度、最初からやり直そう。
玲於奈は何度目かの決意を、今度こそ、深く胸に刻む。

もう涼介と結ばれることは望まない。
その場所には、既に別の女性がいることがわかったから。
だけど、もしできるなら、せめて彼と肩を並べるような人間になりたい。
玲於奈は心の底から、そう願った。


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