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日本デザイン学会と私の探究

2024年6月22日〜23日に、福岡で開かれた日本デザイン学会(春季大会)に参加してきた。
私が1年間取り組んだ卒業研究を、1枚のポスターにまとめて発表した。

自分が行なってきた「お裾分けを通した関係性の研究」は、自分の中で「関係性」という言葉が先行するようになっていった。人々との関係性が減る/薄くなってきている社会の中で、自分の研究はどこに価値や意味があるのかを知りたくて、色々な方と話せることが楽しみだった。

ただ今回は自分の発表だけではなく、同じように社会の課題や直面していることに対して「足元を問うデザイン」として、研究や実践されている方々の話も聴ける場でもあった。
デザイン学会で見つめていた事柄から考えたことと、自分の研究テーマに関して考えたことをこのnoteに書き留めようと思う。


「ここちよい」関係を考えること

私の研究テーマでもある「関係性」という言葉は、しばしば講演の中でも出てきた。

「ここちよい近さ(近接)」 | 山崎 和彦先生、他

(人々が互いに「ふれあうこと」、「近くにいること」という視点が、ケアやコミュニティ、デザインの見方を変えていく、「近接」のためのデザインについての講演)

「ここちよい近さ」については、自分の中でまだはっきり落とし込めていないことがあった。人間関係という繊細で複雑なことをどうやってデザインしていくのか。意図的な関わり合いを作るということが、私にはまだ理解が及んでいないと思う。

関係性をつくったり、維持したりするために「コミュニティをつくる」という方法は思いつくけど、何かのコミュニティに依存しながら育まれる信頼関係は、私の経験ではなんだか苦しくなる時がある。
(もちろん同じくらい嬉しい時もある)

中学校も高校も大学も、皆どこかしらのコミュニティには入っていたと思う。私も部活には入っていたし大学の時は研究会(研究室)にも入っていた。自分が居る場所はここだと思えた時は嬉しかったのに、苦しくなる時もあった。中の人と不仲だったわけでもなかった。
いつもこのコミュニティの中だけで振る舞う自分のキャラクターを探して、理解し合える喜びを知ったし、共感できない苦しさも知った。私はこの何か引っかかったままの状態を、学生の時に上手く言語化しようと思ったけど、結局できなかった。

「ここちよさ」の濃度のようなものは、人によって違うと思う。
私はそれをデザインしても良いことを信じて、当事者たちの意思や行動を考え続けていければいいなと思う。どこがゴールでもない問いであるからこそ、考え続けることをやめたくないし、私の中で探し続けて言葉にしていきたい。


つくることの喜びを知っていること

デザイナーという肩書きを持って社会人になって3ヶ月。私が考えつくっていくデザインは何か。

「WHY 人間『性』中心デザイン?」 | 横溝 賢先生、宮田 義郎先生、他

(「人間性中心のデザイン」という視座を持ち、人々の自立共生を形づくる取り組みと社会実践をテーマにした、デザインの知の原野についての講演)

「自分で何かつくろう」と思った時、それは「デザインしよう」と直訳していない。料理をしようと思った時も、本を読んで自分も何か書いてみたいなと思った時も、自分の五感で得たことを今度は外へ出そうとしているんだと思う。それができた時、私はすごく生きていて嬉しくなる。

例えば料理をする時は、実家で母と一緒に作った時に目で見て盗んだ包丁の切り方や調味料を思い出して、30〜40分くらいかけて作ることが好き。食べるのが自分だけだからできることかもしれない、と後から考えたけれど、自分の思うように身体を動かして、頭に出てきた突拍子もないひらめきを試して、身体の中にいれていく料理という行為は、私にとって自分を取り戻す行為でもあるなと思う。


自分で夜ご飯をつくる

社会で既に出来上がっているシステムでは、自分に与えられている役割や制度の中でしか自分を発揮できない。自分に合わなかったとしても受け入れることしかできなくて、だんだん自分が創造していた時に動かしていた手や頭の動き方を忘れていく感覚がある。最悪、自分で料理ができなくなる。私は作り手としてだけではなく、1人の人間として怖いと感じる。

私はデザイナーとしてつくることの喜びと、日常を生きる中でのつくることの喜びを切り離したくないな、と思う。デザイナーが悪いわけでもなければ、日常で自分のためにつくる料理が直接誰かのためになっているかと言われたらあまりないと思うから。

自分に十分な知恵がなくても、工夫して、思い出して、変えて、などの体験が、私にとってつくることの楽しさで、やがて自分だけの知恵となっていくんだと考えている。

デザイナーが身体的な感覚を失わないままデザインしていく活動を、自分が当事者になりながら探求していきたい。


自分の研究のこと

学会から帰って、丁寧に言語化する時間が1日の中で数十分しかないことに気づいた。
でも1日1日思い出しながら、丁寧に咀嚼している時間を大切にしたかった。

自分の研究のこれからを考えながら、「これまで」と一緒に比較してみようと思った。

これまでとこれからの私

これまでやってきたことは、単に他者同士の関係性を見つめてきたことと、その中で埋め込まれていた価値を探すことだったと改めて考えた。

最近本を読んでいて「自分が当事者となってナラティヴを語る」ことの重要さに気づいた。

三人称のナラティヴから一人称のナラティヴの転換である。(中略)
一人称のナラティヴは当事者でなければ知りえない世界を繊細に語ることができる。

「ナラティヴと共同性 自助グループ・当事者研究・オープン・ダイアローグ」野口 裕二(p66)

私の研究で他者との関係性について悩んでいたのも、喜んでいたのも私だったのに、研究フィールドの中に「私との関わり」がなかった。なかったというよりも作っていなかった。研究では主体と客体が分かりやすいように自分を含めずに関係性を見つめて、構造化をしたりモデル化をしていたことを思い出した。


私と「関係」

「自分で何かつくろう」
というのは関係性でも同じかもしれない。ただそれは意識的に考えているわけではなくて、「ちょっと話しかけてみよう」とか「あ、気になるな」というあからさまに出てくる言葉の奥に居座っているんだろうと思う。

関係性はいつだって自分の身体を纏っていると思っている。家に帰れば親子になるし、会社に行けば先輩や同期がいるし、学校なら友情が生まれる時もあった。そこで自分が何を考えていたかなんて、さほど大したことは考えていなかったと思うけれど、どこかでこの一集団の中で生きている自分と周りに対して葛藤があった。けれど、その感覚を持ちながらも自分はこの関係を維持していくしかない。維持していきたい。

関係をつくること」と「関係を維持する」ことは少し似ているけど、体内からの働きかけが少し違うとも思う。私はその違いがまだ明確に言語化できない。この社会の中で関係性において明確に言えることは数少ないと思うけれど、それでも自分の体験を伴った言葉で表したいと考えている。

そのために私は、"関係性の中にいる自分"と"入っていく自分"と"維持している自分"に気づいて思考をめぐらしたい。自分の中にある変化と外部の変化を眼差していきたい。

「関わり合う」という行動に対して身体的になることと、思考を記録すること。そしてそれが意味があるものとして表現できればいいなと思う。
まだこれしか考えていないけれど、関係性というテーマは考え続けていきたい。

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