知性とは何か

知性の本質的な作用は,機能的な幻(=functional fantasm)を見ることだとおもう。この幻は所謂それと対蹠的で,「違ったようだ」として抛擲されるほうを現象に還元して,「本当らしい」ほうをその内に取り込む。「本当」という説明原理は,それぞれの関心に応じて機能するものをそう讃える。

パン生地を膨らませる「本当」はある社会においては精霊の働きであり,それと別の社会においては酵母による発酵でありうる。ふつうの微生物学者にとってこの精霊とは世界を説明する要素ではないために,「パン生地を膨らませる精霊は本当のことではない」となる。

「?X∀x∀y((Fxy∧By)∧Xx) の答え(X)は何か」という問いをそもそも可能にするという形で,この説明原理は機能している。

functional fantasm という認識装置は,事象を推知して他方では予見する。それら事象の定位について抵触を認めるときには,機構を改宗するか,あるいは自治のために係る事象を抛擲する。

「推知」と「予見」は,なんらかの事象を幻視させるのに対して,「改宗」と「抛擲」は,附置抵触を生じた事象についてシステムが迫られる応対である。それぞれ事象に関する機能ではあるが,このような類別ができる。

諸事象を綺麗に説明するような仕事のことを「統御」と呼ぼう。

ところで,これほど端的に自己の芸術に美しい幻を見ることに成功した人物を,私は荒木飛呂彦のほかに知らない。

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多くの人と幻(=functional fantasm)を共有するところにも興味がある。この共有が成功すると,その芸術の臨場感はより高まるのではないか。

芸術作品における le Réel に対して,そこで活躍する幻は予約でありうるし,逆も然り。

この類の作成は,たんに「このような諸現象がまずある」などというよりは,むしろ「このような幻を活躍させたいから,この le Réel を仮構しよう」とか「この現象を起こしてみたい(或はこのような現実を仮構したい)から,このような幻を拵えよう」というような関係によって成るのではないか。

これまで特に区別をしてこなかったが,芸術それ自体の在り方は le Réel の仮構として,(物語の)創作はそうして仮構された le Réel にこの幻視をも許与するものとして,それぞれを画定することはよいかもしれぬ。

他方で,演技とは le symbolique の仮構かしらん。漫画家はやったことがあるが,できれば演技の造詣にも追いつきたい。

「芸術ないし創作とは世界を贋作することである」というと月並みなことであろうが,それを贋作の手続きによって類別することは面白そうではないか。

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