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ノイキャンとデモクラシー

寒ぃ。まっっじで寒ぃ。

こうなることは分かっていたはずなのに、昼間の僕は玄関先に置いてあるカイロに一瞥もくれず家を飛び出した。なぜだ。時間に追われていた訳でもなかったのに。恨むぞ。

今僕は橋の上を歩いている。橋って言ったって中々のサイズだ。そりゃそうだこの橋は琵琶湖から流れ出る唯一の河川、「瀬田川」にかかる「瀬田大橋」だ。重厚感からしてものが違う。そんなことを頭の中で繰り返しながら、しかし同時に何も考えずに脊髄反射で足を動かし続けた。

寒さを紛らわすもう少しマシな手段はないものか。無意識のうちに僕の両の手はロングコートのポケットに吸い込まれていた。

…ん、?なんだこれ。僕の右手がやけにツルツルした冷たいプラスチックな感触を得た。

あぁそうか昨日僕は共通テストを受験した。二日目、教科は数学と理科。とくに数学はバッチバチの苦手教科だ。並々ならぬ緊張感に喰われ、貪られることは前日のうちから目に見えていた。少しでも現実から目を背けるためにも昨年の夏に購入したワイヤレスイヤホン、AirPods Proはもはやマストアイテムだった。

その感触は間違いなくAirPods Proのケースのものだった。昨日からずっとここに取り残されていたのだろう。少し悪いことをしたような気になって僕はポケットからケースを取り出し、飴玉みたいなイヤホンを右耳、左耳の順で装着した。その刹那、「ポンッ」という機械音が鳴ったかと思うと世の中から一気に音が消えた。

そうだ。これがこのAirPods Proの個人的最強機能「ノイズキャンセリング」だ。本当に素晴らしい。特定の周波数、波長の音を出し、世の中に溢れる「雑音」の音波と重なりあわせることでその雑音(ノイズ)を相殺(キャンセル)する。みたいなことを理系時代に学んだ記憶があるのだ。自信はない、これ以上は許してくれ。

ともかくその機能をオンにした途端、車のエンジン音、人々の話し声、鳥の鳴き声から、空気の揺れる音まで少し恐怖を覚えるくらいに消え失せてしまう。

ところで僕はこの「ノイズキャンセリング」通称「ノイキャン」に親近感にも似たようなものを感じていた。親近感?既視感の方が適切だろうか。

最近SNS、特にTwitterのますますの隆盛により様々なネットニュースの記事に「リプ」として批判なり中傷を送るアカウントが増えてきた。

批判、中傷の種類も多種多様だ。そのニュースが犯罪者や不祥事を起こした芸能人に関するものなら、その人物に対する中傷。日本に攻撃的な外交姿勢を示した海の向こうの国に関するものならその国の大統領、或いは国民に対しての批判。

そして最近目につくのが「メディア批判」だ。「〇〇新聞のニュースはほんと偏ってるから無視していいよ。」「どうせあの国に買収された左翼新聞社だろ」とそのネットニュースを報道している情報機関そのものを否定する。それにより記事内容の信憑性、公平性に難癖をつけようとする。

この種の批判はたちが悪い。なぜならこういう批判をこぞってする輩は「私はメディアには踊らされない、多角的な情報リテラシーを持った人間だ」と錯覚している場合が多いからである。

しかし僕はここで疑問に思う。「情報リテラシー」とは何だっただろうか。定義ならば知っている。中学生の時の公民で習った。

「情報を多角的に分析し、取捨選択する能力」

だ。  

ここでポイントになるのが「取捨選択」だ。

「取捨選択」とは辞書的に言うと

「悪いもの・不必要なものを捨てて良いもの・必要なものを選び取ること」らしい。

この定義に当てはめると確かに先述の「メディア批判」者たちは、「該当メディアの報道内容」という情報を捨て、「自分の意見に近い報道内容」を選び取るという意味での「取捨選択」をしているということになるのかもしれない。

しかしこれは情報リテラシーを語る上においての「取捨選択」としてあまりにも不健全ではなかろうか。

僕がこのように思うのは、この文脈においての「取捨選択」の目的が“自分の持つ意見への承認欲求を満たすこと“になっているからだ。要するに自分の意見を否定する情報を捨て、自分の意見を肯定してくれる情報を選び取っている訳だ。

本来情報リテラシーにおける取捨選択とは「正確な情報を得るために、一メディアの報道を鵜呑みにせず、多角的に分析すること」なのではなかろうか。その目的はあくまで正確な情報を得て、活用し、建設的な議論を行う材料とできることであるべきなのではないか。僕はこのことをある種「暗黙の了解」というか、最近の流行の曲から引用するなら「不文律最低限のマナー」だと思っていたわけだがどうやらそうでもないらしい。

これは非常に危険なことだと思う。この意識が改善されない限り、「報道」というものはこの国の、ひいてはこの地球の住民の分裂を生む危険因子の一種でしかない。もはや「報道」の本来の目的やそのあるべき姿みたいなものは見る影もない。

自分の聞きたい声だけに耳を傾け、その他の音は「批判」という音波を使って雑音としてキャンセルする。これは民主主義における「ノイキャン的行為」だと思うわけだ。

しかしこのノイキャン、当事者からすれば非常に快適なのである。紛れもなく素晴らしいものなのである。ただ一つ、ものすごい速度で迫ってくる後方車の存在には十分注意した方がいいとは思うが。

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僕はイヤホンを耳から外し、極寒の中、もう少しだけ「雑音」を楽しみながら帰ることにした。




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