1月7日「福猫」

その猫は、福猫といいます。北の外れの埠頭におりました。埠頭には海人たちのほったて小屋が建っているのでそこをすみかにして居るそうです。朝が来れば埠頭の先にゴロゴロと歩いて行っておひさんに丁寧に挨拶をして、昼間は埠頭から少し行ったところにある小さな社の屋根に登って寝て居るそうです。綺麗な毛並みのその三毛猫は、北の村で「福猫」と言う名で知られておりました。
私がこの名を聞いて北の村へ向かい、村の方から聞いた話はこうでした。
「福猫は、名の通り福を運んでくれるのさ。もし気になるなら会いに行ってみるといい。運ばれる福のことは私にはわからないさ。きっと行けばわかる。」
当時、わたしは都に出たばかりの若造でした。来る日も来る日も仕事に追われ、心身ともに疲れ果てた、どこにでもいる普通の若造でした。ああ、退屈だといつも思っていました。世界にはどれだけ頑張ったのかわからないほど輝いている人がたくさんいるのに、なぜ自分はこんななのか。本当に死んでしまいたい心地でした。
だから私は、観光がてら、都市伝説を探すような心持ちで福猫にあいにここに来たのですが、どうやらこれは期待がもてそうだ。なにせ、この村は輝いているのですから。
私は北の埠頭に向かいました。そこは村からせいぜい数キロのところで、福猫は聞いたとおり社におりました。
「福猫様、こんにちは。お話よろしいですかな。」
声をかけると福猫はこちらをゆっくりと見てきました。私はすかさず続けます。
「あなた様の噂を聞いて、ここへ参りました。どうか私に福をお授けください。」
福猫は、期待に満ちた私の目をほんの少し見つめると、ゆっくりと口を開きました。
「私を福猫と呼ぶのは、そこの村の人たちですね。申し訳ないが、私は福など授けられない。なぜなら、あなたにとっての福とは何なのか、私にはわからないからだ。でもせっかく来てくれんだ。少しばかし歩こうじゃないか。ついてきなさい。」
私は福猫のことばがいまいち腹に落ちてきていませんでしたが、なにかしてくれるのならばと、意気揚々とついていきました。
私と福猫は山へ行きました。その山は高く険しく、そこらの山とは様子が違うようでした。福猫はこの山をまるで紙の上を筆が走るようにすらりすらりと登ってゆきます。私は必死になってこれについて行きます。すらりすらり。はあはあ、よいしょと。
かれこれ数時間は登ったのではないでしょうか。突然山の視界が開けどこまでも続く野原が現れました。ああ、まだ続くのか。私は少し心が折れそうになります。ですが、福猫はこの野原のへりでとまったまま動きません。
「福猫様、どうなすったのですか。」
「私が案内できるのはここまでです。この先はまだ見ぬ土地ゆえ。」
「どういうことですかな。」
「あなたは、山を登っているときに何を考えなさっただろうか。この先に何があるのか。何を見せてくれるのか。そう考えていたんだろう。だが、現れたのはただの野原だった。いいかい。あなたは今まで色んなことに頭悩ませてきただろう。あなたは今まで色んな壁を痛感してきただろうね。貴方は今までたくさんの輝く人を見てきただろう。でもね、あなたが感じている壁は実は山で、あなたから見て輝く人たちはこの野原の向こうにいるんだ。あなたが何かをなしても、そこに続くのは何一つ変わらぬ大地なんだよ。だから、人は失念するんだ。ああ、何も変わらないって。でもね、あなたが立っているその地面は、果たして昨日と同じだろうか。今度来るときは、その答えを持ってきておくれ。私は、この野原の向こうで待っているよ。」
そういうと、福猫は踵を返して帰っていってしまいました。
私はこのとき本当にクタクタだったけれど、ほんの少しだけ野原を歩いてみよう、そう思いました。