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生きることは「ひらくことだ」。今、岡本太郎の哲学が必要とされるワケ


岡本太郎が熱い。


少なくとも自分はそう思うのです。

感情を思うように外に表現することを忘れているのではないでしょうか?

それは、「自分」という「個」を否定しかねないことを、
30年も前から岡本太郎は熱く我々に「問い」を投げかけています。

今こそ岡本太郎の生前に残したパッションに触れて
全身全霊を「ひらいて」もいいのではないのでしょうか?

岡本 太郎
芸術家。1911年生まれ。29年に渡仏し、30年代のパリで抽象芸術やシュルレアリスム運動に参画。パリ大学でマルセル・モースに民族学を学び、ジョルジュ・バタイユらと活動をともにした。40年帰国。戦後日本で前衛芸術運動を展開し、問題作を次々と社会に送り出す。51年に縄文土器と遭遇し、翌年「縄文土器論」を発表。70年大阪万博で『太陽の塔』を制作し、国民的存在になる。96年没。


『自分の中に毒を持て』岡本太郎 要約


「一度死んだ人間になれ」とはどういうことか?


それは己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し生き抜くことなのだ。

人生を積み重ねるのではなく、積み減らすべきだという冒頭から、ひたすら情熱的にあくまで我々の視座に立って生涯を送った岡本太郎のアイデンティティーの真骨頂が垣間見れる。

安全な道より、あえて危険な道を選べという岡本太郎の強烈な思想。これは、禅僧三千人に対峙した講演のとき、放った言葉は「すべての運命、宇宙の全責任を背負った己自身を殺せ」というものだった。

挑戦した上での不成功者でいい。まずくいった方が面白い。岡本自身の体験で、スキー初心者にもかかわらず、山頂から一気に滑り、案の定転んでしまった。しかし目の前で地球がひっくりかえったような感じを受けているところが、物事を面白く捉える方法そのものだと気づかされる。また、十八歳でパリへ渡り、画家として活動を志していた時も、ニーチェから強い影響を受けた哲学者、ジョルジュ・バタイユとの交流の方が情熱的で刺激を受けたという。

ここで岡本太郎は、「自分は鳥のように自由に空を翔べないが、未熟を決意することは素晴らしいことだ」と断言している。つまり、完成された人間よりも、何かしら欠けた未成熟な人間の意志の決意に賛美を送っているのだ。「いのちがぱあっとひらく」と表現しているが、本書を貫き通す理念であることに要約者は目からウロコな気持ちになった。

読書についても、ほんとうに新しい自身の人生観が開くような本を読むこと。そして、これで精一杯だと思えば、悔やむことも歎くこともない。人生はひらくのである。


個性の出し方で自分はどんな「毒」を持つか?


小学校一年生で4つも学校を変え、自分の居場所を転々とした岡本少年の心の中には、大人になっても持ち続けた抵抗の思想の土台が築かれたように思う。あらゆる場所・あらゆる状況で、孤独な「出る釘」であった。

それはまさに社会対個の構図を呈していた。

「個の尊重」という意味では、身体障害者の音楽家に会った経験が「異様な感動」として残ったという。いわば社会からはみ出した者同士の運命の邂逅だったのかもしれない。

さらに「冒険は甘え」だとも記している。人生は冒険という生易しいものではない。「危険に賭ける」ことなのだ。これこそ真の人間のあり方なのだ。社会に組することができないことは、その人が純粋に生きているからこそこんな不遇で不幸な目に遭っている。しかしこのあり方自体が本当の生きがいだと覚悟を決めるほかはないのである。

人生、即、絶望的な闘いだ。戦い続けることが生きがいにつながる。言い換えれば、「出る釘」となり、危険に賭け戦い続ける生きがいを持つことが「毒(薬)」となるのである


自分を卑小にしない愛のあり方とは?


男と女、親子などは嬉しい「他者」で、気持ちをひらく対象だ。

本書では岡本氏の恋愛観や親子の信頼愛についても触れられている。

まず、独身だった理由は、小市民的な形式主義を嫌悪する考えが強かった。型にはまらない強固な信念がそうさせたのだと思う。

親子愛について、とりわけ母・かの子が岡本太郎のパリ滞在中に亡くなってしまうのだが、ここでの関係性の認識は特別だ。「親子」というよりも「人間同士」として強烈な愛情を抱いていたと語る。これは純粋で無条件な一体感だと振り返っている。

岡本太郎の「愛」の定義については、あまり一般的ではないかもしれない。あくまでも自対他であり、他人を発見することは「自己」を発見することだというのだ。たとえ結婚したとしても、お互いが嬉しい他者であり、同時に一体であること。一方で、必ずしも相手がこちらを意識しなくてもよく、こちらの相手と出会ったという気持ちがあればほんとうの出会いで自己発見なのだ。

男と女。異質であると同時に一体。

どんなにすごい美人でも無視されてもいいから彼女のそばで気持ちを「ひらけ」ばいい。

さらには生きるからには「歓喜」がなければならない。「幸福」ということばではなく「歓喜」なのだ。歓喜は対決や緊張感のないところからは決して生まれてこない


いつも興奮と喜び(歓喜)に満ちた自分になるには?


「爆発」の内なる衝動が全身全霊を込めて宇宙に向かって無条件にひらく。これが岡本太郎の骨太な本書のメッセージである。

失われた人間の原点を取り戻し、強烈にふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。政治家、エコノミスト、官僚はもっと人間に、芸術家になって欲しいという氏の魂の叫びがここにある。

自分の作品を鑑賞した人にも、「いいわね」なんて言ってほしくない。それは「どうでもいいの」と同義だからだ。もっと「いのち」に着目して欲しい。例えば「祭り」が挙げられる。この行事によって「いのち」を確認し、全存在としてひらくのだ。

作品づくりにしたって、むしろ下手なほうがいい。笑い出すほど不器用であればかえって美しい。平気でどんどん作って生活を豊かにひらいていく。そうすべきなのである。結果、意外に嬉しいものが出来る。

「毒(薬)」を持つ生き方を貫く

己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し生き抜かねばならない。こうしてはじめて「いのち」が奮い立つ。本当に瞬間瞬間に自分を「ひらいて」生きているかどうかに焦点をあてるべきだ。

そして、死ぬもよし。生きるもよし。ただしその瞬間にベストを尽くすことだ。

現在に、強烈に「ひらく」べきだ




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