clitterの「リベラル」論
僕には「リベラル」というコンセプトについては持論がある。昔から「リベラル」の本当の意味を僕なりに追求してきた。
「リベラル」って一体何?
「リベラル」とは辞書では「自由なこと」とか「自由主義的」という意味らしい。何となく納得いくようで、その定義や解釈が難しい。本当にリベラルに生きようとするともっと深く理解する必要がありそうだ。
「リベラル」という単語は出てこなかったけど、最近読んだこの記事にそのヒントがありそうだと思った。
この記事は、今話題の台湾のIT大臣の唐鳳さんのお父さんである唐光華さんの話。この記事を読んで、「リベラル」を追求するこのお父さんがいたからこそ、唐鳳という天才大臣が生まれたんだと感じた。
その教育理念は唐光華さんのこの言葉に現れていると思う。
人は往々にして自分が正しいと思いがちです。親は自分を“権威”に仕立てあげるべきではない。また誰に対しても自分のほうが上だと思わないことです
ここで重要なのが、「自分を棚に上げない」ということと、「誰人も権利は平等に保証されなければならない」ということ。
自分を棚に上げるのはリベラルじゃない
これは「日本的なリベラル」に多いと感じていて、3.11後の脱原発とか反原発活動によく見られた気がする。当時、原発がなくても火力発電で十分賄えるから原発を止めろという論調で政府を批判する人が多かったけど、僕は火力発電に変えて済む話じゃないよね...とずっと感じてた。だって、火力発電が増えればその分温室効果ガスを排出して気候変動を加速させてしまうから。
本当のリベラルな人は、原発も火力発電も減らす行動に出る。つまり、電力需要を自分が率先して減らすか、再生可能エネルギーを生み出す行動に出るはず。それもせずに政府を批判するのは、自分を棚に上げていると言わざるを得ない。
権力に何でも反発する傾向のある反権力癖のある人にそういう人が多い。そういう人は一見「正義」に見えるけど、批判されない「立ち位置」で自分を棚に上げて言いたいことを言っているだけの人なのかもしれない。
その辺りは佐々木俊尚さんのこの本を読んですごくしっくりきた。
誰人も権利は平等に保証されるべき
また、「リベラル」というものを考える際に「権利」という概念が重要になってくる。全ての人を平等に扱う必要はないけど、「権利」は平等に保証されなければならない。その為には、自分の既得権益的な特権さえも投げ出せるのが本当の「リベラル」な人だと考えている。
唐光華さんは子供でさえ自分と同等の権利を有していると考え、それを実際の行動に移し、唐鳳さんと接していた。それが唐鳳さんにどのような影響を与えたかはすごく研究の余地があると思う。
個人的に好きな言葉の中にフランスの作家ボルテールのこの言葉がある。(実際に本を読んだ訳じゃないんだけど...)
私は、君の言うことには反対だ。しかし、君がそれを言う権利を、私は命をかけて守る。
この言葉に「リベラル」のコンセプトや思想が凝縮されている気がしている。
自分の好き嫌いとか独自の意見とか関係なく、相手の「権利」が平等に保証される為に命をかけるということ。そんなことが出来る人がこの世界にどれくらいいるのか?って話だけど、本当の「リベラル」ってそういうことなんだと思う。
「持続可能性」というユニバーサルな線引き
「権利」って難しくて、国によっても時代によっても環境によっても変わる可能性があるもの。ある国には当然ある権利が、別の国には無いことも多々ある。「表現の自由」とか「男女平等」とか。フランスには「交通権」が基本的人権として認められているけど、日本には無い。
ユニバーサルな基準が無い中で、ユニバーサルになり得る基準や線引きはどこなのだろうか?個人的に一番可能性がありそうなのが「地球の持続可能性」という線引き。当然権利は平等に保証されるという前提で、各人がどこまで権利が保証されるかは、地球が持続可能な範囲ということになる。
資源やエネルギーの使用を例に取ると、資源やエネルギーを消費する自由は自分にももちろんあるけど、他人にも同等にあるということ。ただ、人より多く消費したい場合は、その分、地球の持続可能性に対して価値を提供すれば良いというルール。土地やスペースや電化製品に対しても同じことが言えて、それらをプライベートで持ちたいなら、本来なら地球の持続可能性に対してそれ相応の価値を提供する責任が伴うはず。
本当のリベラルは、この辺りの権利や責任に対しても自分を棚に上げない。そして他人の権利も守る為にリスクを冒して行動をするはず。そして、自分にも他人にも自由を最大化する為に地球の持続可能性を高める行動を起こすはず。
アムステルダムやポートランドなどリベラルな都市の人たちが当然のように不自由を受け入れたり、手を取り合って協力して地球規模の課題に取り組めるのは、より多くの人々に自由や権利を保証するために、地球の持続可能性を可能な限り高めようとするためだと思う。
「リベラル」な自分のエピソード①ルームメイトがゲイ
ポートランド時代に、ゲイのルームメイトと同じベッドルームに住んでたことがあった。アメリカで昔からあるフリマサイトの craigslist で募集して来た人で、ゲイとは知らずに受け入れた形。
ゲイである彼と同じベッドルームに住むことに(もちろんベッドは別だけど)特に抵抗が無かったし、「近づくな」とも「恋愛対象として見るな」とも全く思わなかったし、「LGBTの人だから過保護にしないと」とも思わず、自分のリベラルさに自分でびっくりしたのを覚えている。
僕の周りにはゲイの友達や知り合いが多かったり、プライドパレードとかも参加したりして自分もゲイだと勘違いされることが多いけど、それを否定するために余計にエネルギーは使わないし、自分が人生の中でゲイになることがあるかもしれないし、自然になるならそれでいいとも思ってる。
「リベラル」な自分のエピソード②リベラル過ぎる恋愛観
僕は恋愛経験は乏しいんだけど、恐らく多くの人が理解し難いと思われる恋愛観を持っている。
まず、恋人が異性と話してたり、メッセージをやりとりしてたり、食事に行ったりすることは、ソーシャルキャピタルとか相手の成長の為なら遠慮せずにどんどんやって欲しいと思う。
付き合ってるのに相手が他の人を好きになることもあるだろうし、それは自然なことだと思う。
恋人の浮気や配偶者の不倫はNGか?というと、それによってお互いの絆が深まったり、それを許せるくらいの他の価値が生まれるならOKだったことにする。
まとめ
本当にリベラルな人って、自分だけでなく他人の権利のためにリスクを冒して行動できる人であり、自分の既得権益さえも投げだせる人。人種も国籍も性別も年齢も関係なく。また、より多くの人々の自由を最大化するために行動する人。
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