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「なんの話してたんだっけ?」っていう「会話の生成変化」を楽しむ

 会話をしていると、始めに話していた内容が5分後にはまったく違う内容になっていた、ということはよく起こり得ます。
 例えば、テスト勉強の話をしていたのに、好きな人の話になっていたり、どこそこに遊びに行く予定を話していたのに、この前、体験したおもしろい出来事についての話になっていたりということは往々にしてあります。
 ビジネスの場で起こるのは厄介ですが、この逸脱を許容した会話ができるかどうかは、相手との親しさの一つの指標であると思っています。

会話の生成変化

 ドイツの哲学者、ジル・ドルゥーズの概念に「生成変化」というものがあります。
「生成変化」という用語を、千葉雅也著の「現代思想入門」から引用すると

生成変化は、英語ではビカミング(becoming)、フランス語ではドゥヴニール(devenir)です。この動詞は何かに「なる」という意味です。ドゥルーズによれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。事物は、多方向の「差異」化のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、すべては途中であり、その意味で一人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」なのです。プロセスはつねに途中であって、決定的な始まりも終わりもありません。    

引用:『現代思想入門』千葉雅也/講談社現代新書

とあります。
 
 簡単に考えると、物事はつねに途中で、つねに移り変わっていく、ということです。
 
 会話の生成変化ということを考えると、会話に始まりや終わりはなく、なにかに反応して新しいものが生まれ、それが繰り返された結果、変化していくことは当たり前であるということが言えます。
 むしろ、そこから、今までとは違った考えや関係性が生まれるんではないか、ということが言えると思います。
 
 なぜ、「会話の生成変化」について考えるに至ったかというと、それは私が電車に乗っていたときに遭遇した二人の男子高校生の様子に違和感を持ったからです。

電車の中の二人の高校生

 私が電車に乗っていると、停車した駅で二人の男子高校生が乗ってきました。二人が私の隣の空いていた座席に腰を下ろすと、そのうちの一人がおもむろにスマホを取り出して、ゲームを始めました。
 もう一人の高校生は、相手がスマホゲームを始めたことを意識してはいましたが、電車に乗り込む前にしていた会話を、そのまま続けようとしています。
 しかし、ゲームをしている高校生は、目も合わさず、ゲームに没頭しながら、会話をしています(無視でも相槌だけでもありません。それは、会話と呼べるものだったと思います)。
 ついに、ゲームをせず話をしていた高校生の方も、スマホを手に取り、触り始めました(なにか用があって取り出したのではなく、仕方なく触り出したという感じです)。
 
 そのときは、この光景に違和感を持ちましたが、なにに違和感を抱いたかは、はっきりとは分かりませんでした。
(スマホを触りながら会話をするのは、今の若者にとっては、そんなに不自然なことではないと思われます)。
 
 ですが、会話の生成変化という考えに思い至ると、得心がいきました。
 
 ゲームをしていない高校生は、会話の生成変化を楽しみたかったが、それが起こらないと悟ると、諦念(?)から、彼は特にやりたくもないスマホいじりへと移っていったのでしょう。
 

「会話の生成変化」は思考と関係性を育む

 ここでのポイントは、やはり生成変化であると思います。
 
 ゲームをしていない高校生は、下校中に友人との会話を楽しみ、刺激的な話になることを望んで、また、友人との関係を育みたいと思って、会話をし続けたのだと思います。
 
 しかし、友人はそれを望まずに、手っ取り早いゲームへの刺激へと没頭していきました。
 なぜ、面と向かった友人とでないとできない、「会話の生成変化」へと向かわなかったのか、そして、なぜ、それをいとも簡単に断ち切れたのか(どちらも相手が望んでいたにも関わらず!)。
 
 そこに、私は違和感を持ったのだと思います。
 
 デジタルが日常に入り込んでいる世の中であると、「会話の生成変化」を楽しむ余裕がなくなっていると思います。
 だからこそ、生の「会話の生成変化」を楽しむようにして、新たな関係性や考え方を取り入ることを大切にしてほしいと思います。

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