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『辛い食べ物をわざわざ食べるのは、人間ぐらいだ』から考え、見えてきたこととは?

――辛い食べ物をわざわざ食べるのは、人間ぐらいだ。
どこかで、そんなことを聞いた覚えがあります。
唐辛子をすすんでかじっている猫を見たことはないし、キムチを犬に与えても食べるのかどうか。匂いを嗅いで、見向きもしなくなるのが目に見えます。
人間以外のほかの生き物からしたら、すすんで苦痛になるようなことをするのは不思議に映るでしょう。

筋トレもその一つのように思えます。
私も趣味で、自宅で筋トレをしています。ウェイトなどの器具は使わず、自重のみで行っています。
日常生活を送っていると、気持ちが前向きなときもあれば、やや前向き、ややうしろ向きのときや、『前向きなどになれるはずがないじゃないか』と叫びたくなるようなときもあります。
気持ちが前向きなときや、やや前向きのときであればいいのですが、少しでもうしろ向きに傾きかけているとき、私の場合筋トレはどちらかといえば、苦痛の部類に入る。そんな日は辞めておけばいいのですが、日常の習慣になっているようで、やらないと落ち着かない。食事をしたあとに歯を磨かない不愉快さに似ているでしょうか。

気分がのらないくても、体を動かしているうちに気持ちのスイッチが入ることがあります。俗にいう『やる気スイッチ』というやつでしょう。さっきまでは自分の気持ちを引っ張っていたつもりが、体のほうが気持ちに引っ張られている。そのときは気持ちがいい。
しかし、そううまくいかないときもあります。『やる気スイッチ』が入るのを体を動かしながら待っていても、切り替わる気配がなかなかない。気配がないどころか、スイッチ自体がなくなったのではないかと感じられるときもあります。そんなときの筋トレはまさに苦行のようです。我に返ってしまうと、「なにをしているんだ」とささやき声が聞えてきてしまう。その声を聞きいれてしまうと、たちまち体が動かなくなるので、耳をふさぐように意識から声を遠ざけるよう心がけるようにしています。

わざわざそんな苦しいことをしなくても――。
猫や犬が、私のそんな気持ちを知ったら、呆れた目でそうつぶやくように思えます。
そもそも、体を鍛えること自体、苦痛な行為の一つでしょう。筋肉繊維を傷つけて太く強くするのですから、楽なことではありません。
でも、続けてきたことで実感したできごとがありました。
先日、職場で荷物を整理することがありました。段ボール箱を運んだり、段ボール箱をいくつも載せた台車を運んだりと肉体労働がメインです。箱の中にはぎっしりと書類や書籍が入っていて、運ぶ前から重いと感じられる段ボール箱も見受けられました。
段ボール箱はたしかにそれなりの重さはあったのですが、私自身、思っていたよりもスムーズに箱も持っては移動させることができました。そればかりか、いくつもの箱の載った台車を人と一緒に移動させるときも、思っていたよりも短い時間で作業を終わらせることができました。
重労働を終えたあと、私は、日ごろの筋トレが役に立ったと心からそう思えました。気がのらないときでも続けてきたことが、こういった形で力となってあらわれるのかと、過去の自分をねぎらいたい気分にもなりました。

気がのらいないときは、筋トレに限らず、あらゆるものが苦痛に感じられます。洗濯した靴下をひきだしにしまうことさえ、億劫なときもある。
私自身、気分がのらないときは、立ち止まってしまう傾向にあります。もともと行動的なほうではなかったし、気分がのらないとその傾向も顕著にあらわれてしまうのかもしれません。同じような人もいるのではないでしょうか。
立ち止まることは悪いことでないけど、その時間が長いと動けなくなってしまう。誰か近くにいて引っ張ってくれる人がいればいいけど、そうじゃないときもある。
どんなときでも、少しでも行動し続けることが、結果的に思わぬ力や展開を生むことになる。
職場での経験は、そうしたことを教えてくれたように思います。
行動しているときは、その先になにがあるのかなんてわからないし、つらいときなどは、そんなことを考える余裕すらない。すべてを放棄したくなるけど、とにかく行動をするっていう気持ちだけは一ミリでもいいから持ち続けていけば、自分が見たかった景色にたどり着ける。そう信じて日々歩いていきたいです。

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