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 【エッセー】迎える朝

 部屋に入ってみると、そこは何も変わらない。変わっていない。
 荷物が少し増えたくらいか。毎朝掃除をしているし、棚の奥の溜まった埃はそのままだ。
 気のせいか少し冷えた感じがする。気のせいかもしれない。でも気のせいではない。
 もうここには誰もいないのだ。
 部屋の窓から透明な光が射し込む。塵が空気の中をゆっくりと回転している。いつまでも、消えずに、光の中で。 

 スリッパを脱ぐ。ベッドの上に腰掛ける。
 本棚には定期購読している仕事の雑誌、そして旅行の土産物が飾ってある。
 鉢植えの観葉植物には、母親が毎日今でも水遣りをしている。                  
 メンタルに関した書籍、学生時代の教科書とノート、社会人時代に入学して通った短大時代の教科書と参考書も書棚にある。
 一番下の段には学生時代のアルバムの写真、プライベートのスナップ写真、友人の結婚式で撮影したお前が映る写真。
                                 
 古い鏡台、低い椅子、化粧品の汚れは付いているが化粧品はない。
 今年の正月に帰って来た時に一晩だけ点けた灯油ストーブ、綺麗なカーテン、ケーブルTVの契約を解除してから付かなくなったテレビがある。
 毎日掃除しているからTVにもTV台にも、埃はない。

 少し背の高いベッドにはお前の荷物。
 勤務先から丁寧に溢れる厚意で戻してもらった。
 何枚ものエプロン、定規、メモ帳、A5サイズのノート、蛍光ペン、ボールペン、シャーペン、スニーカー、鍔の大きい帽子、着替え用のTシャツ、運動会や卒園式で使ったのであろう旧式のデジカメ、書類が入ったいくつものファイルとそこから見える書類の余白に書かれた懐かしいような初めて見るようなお前の手書きの文字で書かれたメモ。
 布製の手提げ袋、丈夫な素材の大きい袋、アニエスのバッグ、いくつもの荷物が、お前の痕跡が詰まった荷物がベッドの上にある。

 机の上には車の鍵、カバーを掛けたパソコン、椅子の上には、椅子の上にはお前が買ったばかりだと見せてくれたピンクのNORTHFACEのリュック。
 リュックの中には、お前の財布、封筒、銀行通帳がある。前の日に何行かの銀行へ行ったのだろう。月末の週末に。
 キーケースとスマートフォンが入ったリュックのチャックを開ける音とその重さ。リュックのチャックを開けると、お前の匂いがする。
 スケジュール帳、シャープペンとボールペン、蛍光ペン、長財布。カード類が財布を膨らませている。
 お前の生活を感じる。リングの付いたノートはお前の日記。日記を付けていたのは知らなかった。毎日3行日記を付けていると母親に聞くまでは。

 ここに座ってお前の部屋を見たことはなかった。
 ここはお前の部屋だ。
 お前が見た光景を今僕は見ている。

 クローゼットの扉を初めて開く。初めて目にするものばかりだ。
 ハンガーに掛けられたコートや洋服、大事にしていた見たことのある革のバッグ、タンスの上に整頓されて置いてある香水、蓋の付いた箱の中の宝飾品。スペースを作ってCDとDVDも置いてある。
 ハンガー掛けの上の棚にはいくつものシューケース。
 クローゼットの中のタンスにはよそ行き用の衣服やスカーフ。
 扉の前には白いカバーで包んだ大きいスーツケースが2つ。

 ここがお前の部屋だ。
 初めて見るお前のベルト、誰かわからない男の写真、書棚の心理学やメンタルの書籍はお前の悩みと不安と共にあった。ビニール袋に入った薬と処方箋と領収書、洗濯をしてたたんだままのスウェツト上下。初めて見るものばかりだ。
 お前のタンスを開けても、クローゼットを開けても、財布の中身を見ても、机の引き出しを開けても、日記を読んでも、罪悪感も背徳感もない。秘密もない。もうお前はここにいない。

 昔の写真アルバムを見て涙ぐむ。明るいお前を見て涙ぐむ。
 仕事と病気でお前の荒れた掌を思い出す。つらさを見せていたお前とそれを隠すお前と明るく振る舞うお前を思い出す。

 この部屋で目に入るものを見ることはできる。それでもPCとスマホの電源を入れることはまだ出来ていない。
 そうすることで区切りをつけてしまうことになると思ってしまうからだ。
 帰ってくるとは思えないが、節目にしたくないのだ。

 子供の頃を思い出す。怪我をお前は何度かした。母とベッドに寝ていた。
 仕事を持っていた母の帰りを毎日一人でTVを付けて家で待っていたお前。
 犬と兎と小鳥、子猫を飼って世話をしていたお前。

 もうお前はいない。変わっているものはない。これから変わることもない。
 永遠に変わることはない。それが僕には悲しいのだ。もうお前はいないのだ。

 お前の部屋にいる僕をいつでも誰でも見ることが出来る。
 お前の部屋にいる僕をお前が見ることはない。
 この部屋にいるお前を見ることもない。
 お前に言い繕うこともない。

 陽が昇ってきている。窓から光がいっぱいに射し込んでいる。
 机の上に僕が置いたお前の腕時計G-SHOCK 。
 僕がお前に頼まれて時々時間を調整して合わせてやったピンクのG-SHOCK.
 お前が僕に自慢していたお気に入りのピンクのG-SHOCK。
 その時計が時間を刻んでいる。
 仕事へ向かうにはまだ早い。
 まだ時間がある。
 そして僕はまだ若い。
 もう少し時間がある。
 陽が射している。
 僕は座っている。
 もう少しここにいる。
 もう少しここにいたいんだ。


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