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退屈であるが故に

ふとした時に考えることがある。
もし自分の人生が一つではなく沢山あったらどんな自分が生まれているのだろうかと
そしてそれらの終着点を俯瞰して見れる自分になりたいなと

こんなことを考える時は、至って集中力が切れて
いる時かその日が退屈な日だったときだ、、、

私はまだ20の年も越していない世間知らずな身だが過去の自身を振り返って失敗と呼べる過ちはいくつかある。
誰しも過ちはあるしこれからもしていくだろう。
それらのなかでもし私の親が大切な人が先生が止めなかったら、もし自分がこうしていればという瞬間が必ず存在すると思う。

私はこれらの分岐点で違う道を歩んだ自分を見たいし、
その時の気持ちを感じてみたい。、

想像することは容易い。
なぜなら空想、妄想、想像は自分の得意分野で
あるからだ!
しかし人間の忘却能力で消されてしまった過ちや後悔を想像することは不可能である。

だから私は消された分岐も含めた別の世界を歩む自分を映画館のように俯瞰して観てみたいのである。

1.もしあの日反省せず、過ちから逃げてしまったらきっと人間としての一線を超えてしまったのだろうかと

2.もしあの日自分の気持ちを上手く伝えられていたらきっと今でも友達でいてくれたのだろうかと

3.もし一瞬でも真剣になれていたら中途半端にならずに入れたのだろうかと

4.5.6...........…

もしも、たらればのような事は今更考えても仕方ない、意味ないと言われてしまうのは承知の上だ。
人生をやり直したい、過去に戻りたいとは思わないけれどそれでもそれらの歩みを進めた自分を見届けて結果何を得られるのかを私は知りたい。

やっぱりこんな事を書くのも退屈な日だからだろう。
それかまだまだ大人でない証拠なのかもと思う今日この頃.…


おやすみ



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