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雪に夏

 外で遊ぶ子らの声がやたらと耳につく。窓に触れる樹の葉々が風に揺れて、屋上からおが屑を撒くみたいに、がさがさ、さらさらと音がする。八月も暮れに差し掛かり、公園の向日葵もうつむき始めている。
「もう寝よう」僕の声にランテコはなんにも応えなかった。彼女は窓の外を見ていた。夜の波が音もなく窓にぶつかっては引いていった。言葉は独り言になって床に転がり、水引棚の足にぶつかって真ん中から割れた。
 部屋には僕と彼女の二人きりで、他にあるものといえば茶瓶と、本と、脱ぎ散らかした服の山だった。
 散らかっていた。堆積したごみと割れた言葉の玉は部屋の端に寄せられ、垢のように溜まっていった。部屋はそのうち足の踏み場もなくなってしまうだろう。
 ベッドの中で彼女の髪を撫でた。彼女の頭、いつも後ろに流しているせいでわからない後頭部の丸みが手のひら越しに伝わる。さするたびに体が硬くなるのを感じ、そのまま気持ちと一緒にしぼんでいった。
 鼻の形も、目の大きさも、肩のほくろも、腰の丸みも、体温も、みんなもとの彼女のようだけれど、僕の心ばかりがしっくりしないまま、違和感として部屋の中を浮遊していた。
 死んで蘇った人は生前と同じ人間なんだろうか。肉も骨も皮膚も細胞もみんな入れ替わってしまっても、外見が全く同じなら、その人と言えるんだろうか。答えのない問いの糸はつむじからするすると伸び出て、どこまでも伸びて、天井をぶら下がる灯りの紐に絡まって解けなくなった。
 ほんとうの彼女は六月に死んだのだ。夜明けごろ、目が覚めてトイレに向かうと、リビングの梁から彼女が首を吊っているのを見つけた。完全に明けきらない朝の青白さの中で彼女の縄を解きながら、僕は昨晩の夕食に作ったシチューの残りについて考えていた。まだかなりの量が残っていたのだ。
 彼女が何を考えていたのかは分からなかった。手紙の一通でも置いてくれたらよかったけれど、彼女はそんなに気の利く子ではなかった。
 心の貧しさはすっかり僕の形をして外をほっつき歩いていた。いつ死ぬかも分からぬ徒労を引き摺って日々を消耗するよりか、いっそのこと、身も心も崩されてしまうことを密かに待ち侘びていた。崩れてしまった先にある、人の優しさに触れたかった。項垂れた先、つま先で見つけたのは途方もないわがままを着こなしたの姿だった。 
「見つかっちゃった」とつま先の僕は云った。そうしてぐるぐると黒い渦となって部屋の宙に浮いた。渦は次第に大きさを増し、家の壁も壊し、見る間に納屋くらいの大きさになった。ときおり黒い稲妻が渦の核からほとばしり、キン、キン、ピシッ、パシッ、と鋭い音を立てた。あたりの空気が冷たく澄むのが肌で分かった。渦は外気の悪気あくけを取り込んだ分だけその大きさを増すらしく、吐く息が白くなり、空気中の水分がぱちぱちと凍った。雪が降り始めていた。壊れた部屋に流れ込む外の暑さは雪の寒さに取り替わり、頬が、耳が、噛まれるようなかじかみに痛みはじめていた。八月の雪の情景の中で僕は、着々と大きさを増す渦に体ごと飲み込まれることを期待していた。

 死とは永久に人々の前に佇む薄ぼんやりとした光のようなもので、その光はなんでもない、に生きておれば生のつよい光に負けて暗く霞んでしまうのに、ひとたびその仄灯りに魅入られたら最後、もう生の明るさが嘘っぱちのように思えてならない。
 やりきれなさは終始僕の体を這いずり回ってむず痒い。仄暗いあの光の美しさに見惚れてしまった僕はもう、後には引けず、かと言って、前に進む勇気も頼りなく、時間を、または日々を消耗する生き方に慣れきっていた。
 死は大きく、皆が皆平等であることを証左たらしめる一つであるようにも思えた。それに、自ら望まずとも我々はいずれ死ぬ、であらば、その結末は悲しみの少ない穏やかなものであることを、つい願わずにはおられませんでした。

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