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趣味としての宗教学

高校はミッション系、大学は曹洞宗と縁あって宗教について勉強する折がある。
親族に宗教関係者がいるわけでもない。ただ、ふらふら生きていたらそうなっていた。

宗教関係の話はうさんくさいし、怪しいし、詐欺まがいなことが話題にあがりがちだ。
僕も宗教については、趣味として、一種の教養として学ぶに押さえて、熱狂的に信仰しようとは思っていない。胡散臭いと思うのも、怪しいと訝るのも、正直理解できる。

ただ、何も理解しないで頭から『やや、宗教は全て怪しいので悪!』とか決めつけるのは思考の停止だと思う。考えなしに、頭ごなしに全否定することも正直どうなんだろう。

高校を卒業して、ぼんやり大学を卒業してしまった僕ではあるが、それでも宗教学を通じて学び得たものとか、いいじゃんその教え、みたいなのはあった。
たとえば、仏教の三毒。これは「怒り、愚かさ、貧しさの三つは生きていく上で毒だから無くしていこうね」みたいな感じ(だと認識してる)で、愚かさや貧しさはともかく、怒りを排除することというのは三毒を学んでからかなり良かったと思う。例えば、上司になにか言われて(おうコラ上等だよ喧嘩じゃボケ)とか思っていたのが(まあこういうこと言う人もいるよね)みたいなところまでは感情をコントロールできるようになったのは自分の中でも結構大きい。

また、キリスト教の聖書の中には「罪を犯したことがない者のみこの女に石を投げなさい」とかいうイエスキリストの教えがあって、ちょっとかっこいいと思った。
台詞までの経緯としては姦淫してた女を見つけた人達がキレた様子でイエスに「姦淫したやつは石打ち(石をぶつけまくって殺す)の刑にかけろとモーセは云ってるけど、きみはどうする?」みたいに問い詰めてて、地面になにかを描いてたイエスが「罪を犯したことがない者のみこの女に石を投げなさい」と云ったので今までキレてた人たちは解散していって、最後に女とイエスだけが残った。で、イエスが女に「私もあなたに石を投げない。行きなさい、もう同じことを繰り返してはならない」とか云って終わる。
これかっこいい。
かっこいいと思っただけじゃなくて、誰にでも罪とか失敗の過去はあるんだから彼だけが悪くて自分は悪くない、みたいな棘のある考え方をしなくなった。きがする。
生きてれば多かれ少なかれ罪を犯すし、それに寄って相手は怒ったり悲しんだりするけど、その相手も僕とは違う誰かの信頼を裏切ってまた誰かを怒らせたり悲しませたりしてる。
「生きていればそりゃ、失敗もするししかたないよね」ってふんぞりかえるわけではないけど、新約聖書のその箇所を読んで、すこしだけ、人の失敗に優しくなったように思う。

宗教学を学ぶことをあまり進んでする人は少ない。宗教関係者とかじゃない無神論者とかは特にそうだと思う。けれど、無神論者だからこそ、多様で奥深い宗教の側面に触れて、感じて、考えて、知っていくことでさらに生きることへの理解が深まってく気がする。
宗教というものを全面的に信じる生き方はしてないけど、何かの拍子に、自分の助けになってくれるかもしれないのだ。

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