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とある模試の後日

 4月24日、私は久しぶりに休日を満喫するために車で遠出をしていた時のことだった。とある生徒から電話が来た。内容は4月23日にあった東進衛生予備校が運営している模試の結果についてだった。
 彼は、京都大学を今年受験校として考えている受験生だ。そんな彼からの電話での一言目は、

 「殺してほしい」だった。

 何事か?と思い、私は近くのパーキングエリアに車を停めて彼の話を聞くことにした。
 その内容は、模試の結果が悪かったという内容だ。点数の結果は、半分も行ってなかった。そのことに対して酷く絶望していたのだ。
 彼は、元々地方の国立大学に在籍していたのだがその大学に対して酷く不満を抱えた状態にあり、私との出会いを機に京都大学の再入学の道を選んだ。そのために、大学を辞め、受験勉強一本で頑張っている。また、一度入った大学を辞めていることもあり、彼のなかに焦りが生まれてしまっている状態にあった。だから、今回の模試の結果が追い討ちがかかってしまったのだろう。
 普通の講師ならここで「頑張れ」という言葉や「今まで何してたんだ」などのような言葉を浴びせるだろう。実際にいろんな塾を講師として働いてきたり、そこで生徒として利用していたときにそういった光景を何度も見て来た。しかし、私自身はそういった言葉や時間はその生徒に対して何も意味がないということを知っている。
 そもそも、例えば前者の「頑張れ」という言葉をどうして彼らに浴びせることができるのだろうか。彼らがその模試までの間にしっかりと授業を受けて参考書を使って勉強していたことくらいその講師が一番よく知っているのではないだろうか。おまけに彼ら生徒はそれまであなたという1人の教育者が言う言葉を信じてそのやり方で頑張って来たのだ。そんな彼らに対して「頑張れ」というのはいささか職務怠慢じゃないだろうか。
 また、後者に至ってはもはや論外だ。そもそも頑張っていなかったのであれば、それはあなたという教育者の腕の無さを周囲にさらけ出しているに過ぎないのではないか。そもそもそういった全否定の言葉を浴びせられた人が果たして今後今以上に頑張って勉強に打ち込むことなんてできるのだろうか。いや、私は絶対無理だと思う。これは、社会の中でも同じことだ。上司の言われた通りにやった結果失敗してしまい、それをその上司から大声で怒鳴られ否定される。これでどうして業績が伸びると思うのだろうか。どうして、生産性が向上すると思うのだろうか。

 では、私自身はどうするのか。どうすればこの子を次に繋げることができるだろうか。それを考えた時、そもそも模試という存在のあり方を問いた。模試とは何のためにするのだろうか。
 公務員試験や資格試験でもそうだが、模試というのはそもそも入試に向けた練習試合であると昔から言われ続けてきた。そのため、すべての試験において模試の存在はとても重要とされている。
 しかし、私自身はこの模試に対してさらなる付加価値を見出している。それは、アセスメントの機会だ。
 入試というのは、一年に一度しかない一発勝負で決まる。その一年間無数にある勉強法の中から一つ選び一年かけて勉強をしていくのだ。その方法は自分に合うかどうか。また、自分は今どこの部分ができないのか。そういった分析を繰り返して、勉強を進めた先に入試があるのだ。そして、それらのアセスメントする場となるのが模試なのだ。そう。我々講師にとって模試とは、現在の生徒の学習面の状況を事細かに分析できる最高の場であり、生徒の立場にとっては、場数を稼げるだけでなく自分の今のやり方が通用できるのかを確かめることのできる最高の実験場なのだ。
 だから、私はその模試の結果を見てその場で事細かく彼の学習状況を身体や精神、社会・スピリチュアルな面をトータル的にアセスメントして彼に今の状況と改善を提示した。
 そして、今の彼の一番の課題点は学習環境にあった。彼は、私の住む大分から1000キロ以上離れている場所に住んでいる。また、1人で勉強を遂行しているため学習のクオリティの維持が難しいということにあった。そのため、一つの選択肢として彼に大分で一年勉強することを提案した。
 住む場所は、大分にある関谷荘という起業に向けて頑張っている学生や社会活動を推進している学生が集まるシェアハウスを提供した。そこで、志の高い同い年の連中と共に過ごしながら私が対面で万全な状態で勉強のバックアップすることができる。そういった選択肢を与えた。
 しかし、その選択肢はかなり大きいものだ。先述したように彼の住む場所は大分から1000キロ以上も離れている。そして、縁もゆかりもない。だから、この選択肢を選ぶことは大きな決断になるだろう。
 それでも彼は、その選択肢を選んだ。親にもそれを説得して応援してもらうことになった。そう。この選択肢は、絶対に大学に合格しないといけないということ。一年という長い時間を全く違う場所で過ごすこと。まさに茨の道だ。
 だから、その道を選んだ彼を私は誇りに思う。

 人は、二つの選択肢があった時、必ず「楽な選択肢」を選ぶ習性がある。それは、人の中にある防衛反応が働いているからだ。
 例えば、「金持ちのブス」と「貧乏のイケメン」がいたとしてどっちを選ぶかという話がある。そんな時、あなたはどちらを選ぶろうか。それは、あなたの状況によるのではないだろうか。自分自身がかなりの経済力があって、4人くらい平気で養うことができるとしたら貧乏のイケメンを選ぶのではないか。では、逆にあなたがフリーターで月10万円以下の経済力しかなかったらどうするか。

 今、あなたの心が少し揺れ動いたのではないだろうか。そう、それが防衛反応なのだ。
つまり、「楽な選択肢」というものは「自分のレベルから楽な選択肢」ということなのだ。だから、自分のレベルを上げれば選択肢は広がるし、自分のレベルをそのままにするのであれば選択肢は金持ちのブスになるのだ。
 でも、その中でも貧乏のイケメンという茨の道を選べば、自分自身を成長させるか相手を成長させるしかなくなる。そう。だから、今、あなたに選択肢があったとして、どちらも選ぶことができる余裕があるのであればぜひ、茨の道を選んで欲しい。
 その道は、孤独で毎日が大変だ。それでも、その茨の道を選んで突き進むあなたを応援してくれる人は必ず現れる。しかし、決して、応援してくれる人を間違えてはならない。そんなあなたを蹴落とそうとする人もいるのだから。でも、心配しないでほしい。なぜなら、その道を突き進んでる時のあなたはちょっとだけレベルが上がっているのだから、そんなやつこっちが蹴落とすことができるのだから。

 

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