読書雑記 トーマス・マン『ヴェニスに死す』
トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』(表記揺れあり)を読み、さまざまな感想を見ていた際、本作も同様に「生活と芸術」というテーマを扱った作品という書かれ方をしており、興味が出たのでこちらも読んでみた。
芸術家のおっさんがショタコンになって死ぬ、そのくらいの粗筋を知った状態で読み始めた。なお、こちらも有名らしい映画版は未だ未視聴。
壮年のドイツ人小説家、アッシェンバッハは各種の作品で大いに名声を得ている。散歩中に出会った異国風の男からのインスピレーションにより、彼はヴェニスへ旅行する。そこで彼はポーランド人の旅行者一行の少年、タッジオの美しさに惹かれる。
タッジオを観察するアッシェンバッハ。一度はヴェニスを去ろうとしたが、手違いをきっかけに滞在を継続。観察者の目は熱意を増していき、ついにタッジオへの愛を自覚するに至る。
ヴェニスに迫るコレラから人々が避難していく中でも、彼はタッジオを追って滞在し続ける。最終的に、半ば狂死するかの如く、不世出の文学者はコレラの犠牲者として息を引き取る……といったあらまし。
話の構図だけを見れば「ううん」と漏らしたくもなる。しかし愛の形式はアッシェンバッハの純情、タッジオを通した美に対する一方的な感情から成るものであり、性愛の雰囲気はない。そのせいか事前知識からの偏見ほどの気持ち悪さはなかった。
自分が印象に残っているのが、アッシェンバッハが食するイチゴの対比。映画版を含む感想や考察のサイトによると、これがコレラの感染源では?と言われているらしい。
さて、作品内ではアッシェンバッハは2回イチゴを食べている。1回目は第3章、海岸でタッジオを「鑑賞」しながら、タッジオに接吻した友人に不快を感じつつ朝食に。
アッシェンバッハはその男を指でおどかしたい気持にさそわれた。「しかしおまえにすすめるが、クリトブロスよ、」とかれは微笑しながら思った。「一年間旅に出るがいい。おまえが全快するには、すくなくともそのくらいはかかるからね。」それからかれは朝食に、行商人から買った大きな熟し切ったいちごをたべた。
よく熟し、素晴らしい甘味と酸味を放つ大きないちご。成熟された一大芸術家、アッシェンバッハの象徴と言えなくもない。
若き日のアッシェンバッハと比べれば、名声を得た物悲しい「保守への後退」ではあったけれども、人間年を取れば大抵トゲは丸くなるものだ。同じようにイタリアを旅したドイツの文学者たるゲーテは、初期のロマン主義を経て、後期にはより調和的・古典的な方向に向かったのだという。その土台から『ファウスト』が生まれるわけだし、悪しざまに言われるようなことでもあるまい。多少残念ではあれど。
しかし、名士としての理性が生み出す強い自制心に御されていた、彼の美を探求する芸術家としての衝動は、タッジオの登場によって抑えられないほどに増大していく。美への愛のような、けれども形態としては恋のような?
2度目の機会は、第5章も終盤のこと。
化粧をしたアッシェンバッハは、肉体と精神を疲弊させながら、病の吹き荒れるヴェニスでタッジオ一行を追いかけ、しかし見失う。渇きを癒すため、彼は青物屋からいちごを買う。
かれの頭はもえ、からだはじとじとするあせでおおわれ、うなじはふるえ、これ以上たえがたいほどのかわきにさいなまれて、かれは、なんでもいいから今すぐにのどをうるおすものはないか、とあたりを見まわした。小さな青物屋の店先で、いくらかの果物――いちごの熟しすぎたやわらかなのを買って、歩きながらそれをたべた。
理性的な行動、ここではヴェニスからの避難だとか、腐敗した食物を執らないとかそんな適切な行動。或いはそもそも、彼にそれをさせない原因となったタッジオへの感情を断念すること。
彼は「成功した芸術家」として必要だった理性と衝動の間に完成していた調和を捨てて、衝動の道を選ぶ。完熟したいちごでも、ある一線を越えれば食べられたものではない。その点では、よく熟した、というのは腐敗という死に限りなく近いものなのだ。
ヴェニスへの出発当初の本人が聞けば眉を顰めるかもしれない、化粧をして彼を追う行動。アッシェンバッハの一方向の、しかし歪んではいない愛情はタッジオには(恐らく)気づかれることなく、アッシェンバッハの死によって幕を引く。
成熟と腐敗。二通りの姿を、作品内のいちごは見せている……と自分は感じた。
最初に述べたマンの作品『トニオ・クレエゲル』の主人公トニオ(トーニオ)とアッシェンバッハには、共に謹厳かつ勤勉な父と芸術家気質の衝動的な母の間に生まれ、その形質を併存させて生きてきた、という点で共通する。彼らはともに2つの気質の併存者として文学作品を発表して評判を得るが、一方で対照性もそこにある。
年若いトニオと初老のアッシェンバッハ。北へ向かうトニオと南へ向かうアッシェンバッハ。
トニオは帰郷することにより、自分がもう善良な一市民として生きられないことに気づきつつも、善良な人々への愛を再び自覚し、それを基盤に芸術活動をさらに深めていくことを決意する。一方のアッシェンバッハは、理知的に調和した芸術家として成功しつつも、タッジオへの愛を自覚し、最後には理性を半ば失いながらこの世を去る。新たな自己形成に対する破滅。
『トニオ』は1903年、『ヴェニス』は1912年の作品であり、連動した作品というわけではない。しかし、マン(のみならず多くの文学者)の「実生活と芸術の対立」という葛藤を現す2作として、その類似性と対照性は注目すべきところだとは思う。
よくわからない文章になってしまった感があるので、言い訳としてタイトルを「雑記」にした。それはそれとして、マンのほかの代表作、特に『魔の山』等も読んでみたいところ。少なくとも自分の読んだ2作にはそう感じさせる魅力があったと感じる。あとは映画版『ベニスに死す』の方も。
最後までお読みいただきありがとうございました。
【出典】
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