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孤独と孤独感

孤独と孤独感はちがうと思っている。孤独は好きだけど、孤独感はきらい。


孤独は、自ら選んで決めたことで、孤独感は自分で選んで決めたことではないと思っている。選ばされている、と思ってるのかもしれない。


わたしは人が好きだが、人づき合いは得意なほうではない。どちらかというと下手だし苦手だ。


気づかいができないから、そんな自分を責めてしまう。


だから気を使わなくていい相手としか、心を通わせられないと思っている。


いまのところそんな相手は夫だ。あとは5人の子どもたち。


ダメでくずでポンコツでどーしよーもないわたしを、安心して見せられる。そんなわたしでも大好きといってくれる。


なぜ突然そんなことを思ったかというと、長男とそういう話をしたからだ。


最近よく長男と電話で話しをするようになった。


長男は長いこと精神疾患とともに生きている。うつと統合失調だ。


音楽活動をしてなんとかバランスを保っているが、うつや被害妄想などがひどくなりそうなとき、心の内を吐露してくれるようになった。


専門家ではないから長男の話をただ共感しながら聞くことしかできないが、わたしと話すことで少しずつ気持ちが落ち着いていくという。


思考的解釈をすると、わたしの世界に登場している長男の苦しみや苦悩はわたしということ。


わたしは長男を通して見せられているだけ。


だから長男の悩みを解決したいとか、アドバイスしたい、なんとかせねばと思うのではなく、わたしの思考の何を見せてくれてるのだろうと考える。


ハッキリいって難しい。わたしは長男ではないと思っているから。


たとえば友だちに悩みを相談されたとする。わたしはきっと、その友だちの悩みや苦しみを少しでも和らげたいと思うはずだ。


いや、そうしてきた。


でもそれは、友だちの悩みではなくて、わたしの問題なんだということである。


わたしと友だち、わたしと長男というふうに、分離して考えていた。


思考は100%現実化しているのだから、友だちの悩み、長男の苦悩は、すべてわたしの思考が現実化した結果ということになる。


長男や友だちは、ただわたしにそれを見せるためだけに、その悩みを相談しているというわけだ。


わたしのどんな思考を、潜在意識を見せられているのか、わかっていないようで本当は心の奥深くでわかっていること。


向き合いたくないことがあるのだろう。それを見るのはきっとものすごく怖いこと。だから、わからない、思い出したくないと思っているのかもしれない。


わたしは孤独は好きだが、孤独感はきらい。きっとこれがヒントなのだろう。


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