1日の中で出くわす選択肢に対して、最近は出来るだけ怖い方を選ぶようにしている。丁寧に私の声を聞いて本当に望む方を選べるように、1つ1つの選択を慎重に。 今までの私は、例えば好きな人と話すとき。 パッと湧いた感情をそのまま言葉にするのは恥ずかしかった。「今日の服かっこいいね」とか「あなたと話すの本当に楽しい」とか。こいつ気持ち悪いとか、嫌われないかなって怖くなる。 失敗することを恐れて、上手くいかないことを恐れて、傷つくことを恐れて、何も行動できなかった。 自分の本当の気持
自分がとても大切にしてきたものを失うこと そして自分がどれだけ努力しても 相手を想っても 相手を愛せないこと、愛が届かないこと、愛されないこと それは本当に苦しくて辛いこと 本当は凄く愛されたかったんだよね 弱さを受け止めて素直に「助けて」を求めた時、沢山の人に救われた。 色んな形で私を助けてくれた。 私は自分をゴミ人間だと思っていた。 本当の私になんてまるで価値がなくて弱くて情けないものだと思ってたから そんな自分が憎くて怖くて誰にも見せられないと思っていた。 だから
向上心という名の自己否定をずっと続けてきた。今の自分はダメだ、今の自分を認めたらこれ以上成長することが出来ない。 だから未来の自分に思いをはせて、今の自分を否定して、そしてそれを原動力にしてこれまで生きてきた。そしてその頑張りは報われることも多かったから、その生き方を改めることなんて毛頭なかった。 気づいたら「もし私がこうしていたら…」「私がこうだったら…」という自責思考でしか物事を考えられなくなった。 思い返せば、この発端は幼少期に遡ると思う。 何かと否定されて育てられ
心が疲れている。元気が出ない。落ち込んでいる。 ここ最近の私。 色々なことが雪崩のように私を襲ってきて、そしてそれらはすぐに解決できることではないし、自分を含め誰も悪くないことだから、行き場のない思いが溜まってしまった。 元気が出なくていつものように友人と接することが出来ていないと思う。 私の中で心の整理がついていない子(私も相手も悪くないよ、私の相手を受け取めるキャパがそこまで大きくないってだけ。だからどうやって接するのか、どう受け止めると私は楽なのか模索してる)に対
これから見せる文章は綺麗事かもしれない。 でも、これは私が私に「大丈夫だよ」と慰めるための綺麗事なんだ。 私がこの世の中の誰か1人でもいいから、その人に「大丈夫」と背中を摩るための綺麗事なんだ。 昨晩精神的に荒んでしまった私が、自我を保つために必死で泣きながら音声入力で打ち込んだ綺麗事です。 上手くいかなくて落ち込んでしまう日もあるけれど、私って駄目なやつなんだって責めてしまう日もあるけれど。 大丈夫だよ、生きててくれてありがとう。 頑張ってくれて、ありがとう。 夢は
変わりたい気持ちはあってもいい。 だけど、それは今の自分を否定することとは違う。 今までの人生を私の歴史、私の足跡として受け入れ、 その上で、自分の持って生まれた「私」という素材から 最大限に魅力を引き出すというのは素晴らしい事なんだと思う。 そしてただ魅力を引き出す、だけだと方針が掴みにくい。 そのために私たちは「憧れの人」「推し」というものを作り上げるのかななんて思ったり。なぜだか分からないけど、そういう人に「好き!!!!」って感情が無限に湧く。 それって 自分もそ
のんびり生きたいな、と思った。 急かされず、自分のペースでゆっくりと。 いつからだろう、こんなに焦りながら生きるようになったのは。 小さい頃はマイペースで、お母さんによく「早くして」と言われていた気がするなぁ。こだわりが強い性格だったのもあったから、靴を止めるマジックテープのきつさが両足で同じじゃないと嫌で、時間がない朝もこだわっていてよくお母さんに怒られたな。 人見知りであんまりお友達が作れなくて、保育園も苦手で。毎朝泣いた。 体も弱くてすぐ風邪をひくから、よく保育園を
私がどんな世界を生きるかは、私が決められる。 どこかでそんな言葉を聞いた気がした。 だから、私は私の大好きな世界を思い描いてみる。 でもいきなりこうなってほしい世界を思い描くのは難しいから、こんな世界は嫌だを挙げてみる。 ・我慢を強いられる世界 ・やりたいことが出来ない世界 ・人の目を気にする世界 ・好きな人の温もりを感じられない、思い出を共に創り上げられない世界 ・好きな人と付き合えない世界 ・目の前の現実がただ過去になる世界 ・嫌な言葉を投げかけられる世界 ・私らし
"私が選ぶ選択は全て正解だよ" "どんな感情や状態もあっていいんだよ" 今までの私は ・選択肢は正解を選ばねばならない ・失敗を限りなく0にする努力をせねばならない ・不安は速やかに除去しなければいけない ・怒りや悲しみは出来るだけ感じてはいけない ・嬉しいことがあっても喜び過ぎると調子にのるから喜びすぎてはいけない ・嫌なことや悲しいことはどんな時も自分に非がある そんな風に生きてきた。 善悪の正しい付け方が分からなくて、とりあえず自分に非を押し付ければ上手くいくと勝手
成功しなければいけない、失敗は出来ない、に溺れた私は 誰かからの承認に貪欲になった。 だけどそれじゃ永遠に満たされないんだよな~~ってずっと思ってた。 じゃあ成功が増えたら満たされるかな?ならもっと頑張らなきゃとか。 現状維持は怠けだから、休んだらダメだとか。 今を満たすことじゃなくて、今頑張ることで"未来の自分"を満たすことを目標にしてたんだよね。だけどそんな未来は来なかった。 今でも、心のモヤモヤとか不安とかを無くして心を満たしていくために"頑張る"を無意識でしてしま
結論から言います。自己啓発から一時離脱します。 自己啓発は私にとって、とても大切なものでした。 生きづらかった思考や凝り固まった思い込みを取っ払うために沢山のことを教えてくれました。 約7年近く、様々な種類の自己啓発本やブログを読んできて、どんな自己啓発系の読み物を読んでも「あーまたこれか」となることが増え、新規の情報を得られなくなってきました。 もう、私には自己啓発はいらないと思いました。 自己啓発本やブログは私にとって一種の逃げみたいなところもありました。なぜならそ
この世が綺麗事で溢れていても、私の中にどれだけ綺麗事を蓄積させても、私は綺麗には生きれない。 本音に従える日があってもいい。 本音に従えない日があってもいい。 本音に従えそうな日があってもいい。 願いを叶えたいって思う日があってもいいし、 願いを叶えられないと思う日があってもいいし、 願いを叶えられると思う日があってもいいと思う。 上手く生きられる日があってもいいし、 上手く生きられない日があってもいい。 焦りが湧くときがあってもいいし、 焦りに任せて行動してしまう日
色んなキャパシティーってあるよね。 心のキャパ、感情のキャパ、頑張りのキャパ、食欲のキャパ。 好きな人と話してて、私が「よく食べ過ぎて気持ち悪くなって吐いちゃうことがあるんだ」って言ったら「キャパ分かんない人じゃん」って言われた。確かにねって思った。 キャパなんて考えたことなくて、小さい頃から欲のままに食べて苦しくなったらやっと食べるのをやめる、みたいなところがあった。 でもよくよく考えたら、私がキャパオーバーしてたのは食だけじゃなくてすべてのキャパだったのかも、とふと思
承認欲求は悪いものじゃない、認められたいという気持ちも悪いものじゃない。 だけど認められなかったとき、落胆する必要もないんだと思う。 ただ相手が私の意見に「納得できなかった」だけ。他の意見を持っているだけ。私を否定しているわけじゃない。 そして私も私で認められなかったからといって、自分の意見を引っ込める必要もないということ。どうやったら認められるかなんて考える必要もないということ。 そしてどう伝え方を変えても納得してくれない相手がいるとしたら、その相手から離れることが大事だ
認められたがりの承認欲求の強い自分が嫌いだった。 自分の顔が嫌いだった。 自分の体形が嫌いだった。 自分の全てが嫌いでどうして私が私で生まれたのかわからなかった。 自分を卑下し続けて生きてきた19年間。 自分の価値を見失い続けた19年間。 マスク生活は私にとって素晴らしいものだった。 醜い自分の顔を隠せるから。少し強くなれた気がした。 だけどマスクを外す時、ずっと 「こんな自分の顔でごめんなさい」と謝り続ける自分を見つけた。 マスクを外して自然に笑えなくなった。人の目を見
最近生きづらいな、って思うことが増えた。もっと楽に病まずに生きれないかなって考えてるときに1冊の本と出会った。 本書でいう絶対悲観主義を概説すると、 もっとこうならないと、もっとこうすればよかった、 いつもそう自分を責め続けていたなと思う。そしてこの自責は裏を返せば自分への過剰な成功を求める期待なんだと気づいた。 上手くいかないのが当たり前、と聞くと悲しく聞こえるけれど‘‘何かをする時に失敗するのが当たり前、だから失敗して責める必要はない‘‘という全受容してくれる考え方