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■【映画】エクス・マキナ 人間らしさ、衝動、内なるクオリアと色彩豊かな世界

■AIやアンドロイドを通して「人間とはなにか」について考えさせるというテーマはいつでも魅力的だ。そのなかでもこの『エクス・マキナ』は一歩引いた知的な目線でそれを語る独特の味わいを持っていて、それが観る者の心をぞわぞわさせる一級のサスペンス映画だ。

■巨大ネット検索企業の社長の広大な別荘地に招待される青年が出会ったのはAIを搭載した女性ロボット。彼のタスクは「彼女」が人間とみなせるかを判定することだった・・・。という筋書き。

チューリング・テストという、対象が機械か人間かを判定するテストがある。(フォークト・カンプフ検査ではない!)
別の部屋にいる対象とパソコンなどで会話をし、相手が意識や自我をもった人間かどうかを判定する試験方法なのだけれど、今回は対面で、しかもボディーは明らかにロボット。

エヴァはこの表情で見つめてくる

■対話を続けるうちに青年がこのロボット『エヴァ』に共感と好意を抱き始める描写がいい。それにあわせて観る者も同時にそこに引き込まれていくという仕掛けだ。

むしろ億万長者の天才プログラマー、ネイサンの方が怪しい。山や川をまとめて抱く広大な別荘でひとりAIロボットの開発を続ける彼が狂気に陥っているのではないか、という感じがひしひしと伝わってくる。

時折発生する停電によって監視カメラが止まったとき、エヴァは青年ケイレブに「ネイサンを信じるな」と警告を発する。
ここがケイレブ、そして観客がAIと人間の区別を混同し始める分岐点であり、ここから物語が一気に動き始める。

■2014年・イギリス映画。『28日後…』のアレックス・ガーランド監督作品。第88回アカデミー賞視覚効果賞受賞。

ポロックの作品と億万長者の天才プログラマー・ネイサン

■■■ここから、ネタバレ■■■

■この作品を読み解くひとつ目のカギはポロックの絵画だ。
ポロックは描こうという意思を横に置き、自身の体の奥にある何かに従ってキャンバスに絵の具を乗せていくという作風の抽象画家なのだけれど、その絵画を前にしてネイサンはいう、
「意志をもってポロックがキャンバスに向かったらどうなると思う?…そう、もうなにも描くことは出来ない。」
「ヒトの行動は計算された意思決定によるものではなく衝動から起きてくるものだ。」
別の場面では、
「君が黒い肌の女性が好きだとして、それはいろいろな分析と評価の結果としてそうなったのではなく、ただ好き、なのだ。」
ともいう。

■天才プログラマー・ネイサンが「AIを人間とみなせるか」という問いの判断基準はここにある。
つまり、分析を伴わない、理屈のない、何かに突き動かされるような衝動が人間の本質を表している、ということである。

そして、「人間」は「衝動」に突き動かされ、それを達成するために知性と策略を巡らせ行動する。
「エヴァ」は合格。
ネイサンの計算違いとケイレブの不幸は、「エヴァ」が予想を上回る成績優秀者だったということだ。

■果たして「エヴァ」は人間だったのか。
確かに「外に出て世界を見てみたい」という衝動はある。
しかし、「白黒の部屋で育ったメアリー」は果たして世界をどう認知するのだろうか。この世界の豊かな色彩を「認知」できるのだろうか。知識・情報としては蓄えていたとしても、実際には難しいのではないか。

「赤」といったとき、そこにリンゴの触感や真っ赤な夕焼けの記憶と情感といったものがまとわりついてくるのが人間だ。それを「クオリア」という。
単純な情報の蓄積と身体感覚をもって育つ人間の経験との違いはそこだ、という議論があって、私はその意見に深く同意する。

作中で出てきたこの「白黒の部屋で育ったメアリー」の話が、本作の真のカギなのだとわたしは思う。

■この世界に広がる豊かな色彩は、ただそこにあるのではなく、見る僕らの内にある。
人間とはなにか、
という問いに対する答えをネイサンは「衝動」といったけれども、監督のアレックス・ガーランドは「内なるクオリア」と言いたいのだろう。

地下の研究室の無機的な感じと対比される周囲の大自然の美しさ。
ガーランドは映像表現としてその答えをしのばせているように思えてならない。
そして何の感情もなくネイサンを機械的に刺し、ケイレブを見捨てる「エヴァ」は外の世界に出ても無機的な世界の中にとどまり続ける。
そこに「人間」の要素はない。

かくしてパンドラの箱は開かれてしまった。
「彼らは遅かれ早かれ人間を原始人とみなすようになるだろう」
ネイサンの予言は現実になるのかもしれない。

■目の前にいるものが人間なのか機械なのかについて、チューリング・テストで果たして判別は可能なのだろうか。

感情移入を特性とする人間には、そもそもその判定は出来ないのかもしれない。

P・K・ディックはその小説「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」のなかで、人と機械を区別する判定基準を「共感能力」と考えた。

しかし、「白黒の部屋で育ったメアリー」が機械でなく人間だったとして、世界の豊かな色彩について我々と同じような共感能力を持てるのだろうか。では、愛情を注がれずに育った人は?

この問題はなかなか一筋縄ではいかないのである。

■ここにきてAIが生活の中に入り込み始め問題視されはじめているけれど、この作品はそこにとどまらず、そういった「人間らしさ」というテーマに深く踏み込んでいる。

そしてそのテーマの先には「人生の豊かさ」とは何か、という幸福論があって、今しみじみとそのことについて考えている。

あらゆる災厄がそこから飛び出したといわれるパンドラの箱の底には「希望(エルピス)」が残されているという。

いつだって「希望」は認識されることなく、ひっそりと内側にしまい込まれているものなのだ。
その頼りない、認識できない存在を信じることだけが、われわれの唯一の救いなのかもしれない。

ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル ≪パンドーラー≫ 1882


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