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「君たちはどう生きるか」を考える


今思えば、宮「崎」駿が、宮「﨑」駿に表記変更された事実は、この作品のテーマを見事に暗示していたのだろう。

宮﨑駿の事実上最後の作品とされる「君たちはどう生きるか」は度重なる「引退宣言」の果てに、本気で彼が「長編映画制作」を自分のアニメーション人生を総決算することで「終わらせる」ことに決めたのだろう。(ただし、これまでも宮崎は、これで終わりと言いながら、「(構想が)降りてくるときは降りてくる」と言いながら都度引退を撤回してきたのも事実である。よってこれが最後だとは誰も言い切れない)

2016年に動き出した長編の企画は、当初の「絵コンテ完成までに1年、公開までに3年」の予定を大幅に超え、絵コンテだけで3年もの月日を必要とした。さらに作画にも3年を要し、実に公開までに7年という時間が経過している。この間に戦友とも言える高畑勲や安田道世がこの世を去ったことは、宮﨑に多大なる影響を与えたことは想像に難くない。

長編映画のスタートは鈴木敏夫のラジオ番組「ジブリ汗まみれ」で公となり、宮﨑本人がタイトルを「君たちはどう生きるか」であることを公表した。吉野源三郎の「君たちがどう生きるか」が原作であると断定した出版社は早速動き出し、マガジンハウスから小説版と漫画版の2種類が再リリースされた。(オリジナルは新潮版だが、宮﨑本人が実際に読んだのは岩波版のようだ)

しばらくの間、映画の内容は原作に忠実なものと考えられていたが、鈴木敏夫の説明では、「映画は宮崎駿の自叙伝的なファンタジーであり、吉野源三郎の原作はあくまでもストーリー上のきっかけに過ぎない」という。

この頃から映画に関する情報は遮断され、制作の進行状況などは公にされることはなかった。

その後、映画の公開は唐突に案内された。公開されたのは1枚のイメージボードのみ。それも「目つきの鋭い男が鳥の被り物を纏っている」という謎の登場人物が描かれているだけであった。

鈴木敏夫は「宣伝をしない」という方針を打ち出した。「今の時代、観客は映画を観る前に、ほぼ内容が分かってしまうような予告にうんざりしている」という。

実際、公開当日まで全く何の情報も出てこないという徹底ぶりで、宮﨑駿もさすがに「宣伝なしで大丈夫なのか」と不安になったという。これについては、「宮﨑駿の総決算となりうる長編映画をスポンサーに気を使うことなく、やりたいようにやり切らせたい」という方針もあったのだろう。

そして、いよいよ公開。

水色の背景にいつものトトロが現れる。改めて宮﨑駿の最後のスタジオジブリ作品になってしまうかも知れない事実に背筋が伸びる思いがする。

ーーーここからはネタバレを含みますーーー

初見では正直にいって内容を掴みきれなかった。説明的な台詞が最小限に留められ、次から次へと場面が展開し、それらが何を意味しているのか反芻する隙を与えてくれない。気づいた時にはエンディングを迎えてしまっていた。

同行した妻と映画の内容について語り合うが、何と言っていいかよく分からない。

ただ、あるシーンから思い出したこともある。

かつてテレビで放送された特番での宮﨑の言葉。

「後継者は育てたよ。でもスタジオは才能を食ってしまう。たくさん食ってきたよ」

この言葉が「ペリカンがワラワラを食う」シーンと重なった。この時点で、塔の中の異世界はスタジオジブリそのものを表していると仮定して解釈を進めてみることにした。(というか、それくらいしか思いつかない)

いくつかの仮説を立てながら、合計3回劇場に足を運んだが、鑑賞の度に新たな疑問が持ち上がる。自分たちの解釈が正しいのかどうかもよくわからなくなる。

他人の解釈には、できるだけ触れないようにした。作品の解釈は受け手のバックグラウンドナリッジ(読書歴や学習歴、人生体験などを含む)によって大きく変わってくるからだ。解釈というものは各自が好きに行えばいいのである。

3回の鑑賞の度に妻と様々な意見を交換したが、毎回が新しいことの発見であり、実に充実した時間であった。(そして、今後もこの映画を観る度に語り合い、新しい解釈が生まれることだろう)

ーーーーここからは解釈ーーーー

主人公の眞人は若き日の宮﨑駿である。まだ漫画やアニメーションに出会う前の彼自身。叔父が戦闘機の部品工場を営んでいたことなど、彼自身の生い立ちと一致すること多数。

眞人はサギ男に塔の中へと誘われる。

ここで考えるべきは「なぜ鷺である必要があるのか」である。かつてペンは羽根ペンであった。その羽根ペンは主に鷺類の風切り羽根が使用される。真人が最初に塔の中に入ろうとした時に存在した羽根は、塔から出たら消えていた。この時点で塔の中はペンの世界であることが暗喩されている。

極め付けはサギ男にとって最重要な羽根が「風切りの7番」だということだろう。なぜ7番なのか。この数字はどうやらアルファベットに対応しているようだ。

A(1)
B(2)
C(3)
D(4)
E(5)
F(6)
G(7)

つまり、風切りの7番というのは、ペンの象徴である風切り羽根と7番目、つまりGのペンという意味を掛け合わせた造語なのであろう。いうまでもなくGペンというのは漫画用ペンとして有名である。

ちなみに本作では、上記のような「遊び」をいくつか仕込んでいることが伺える。ジブリの公式サイトでは7人のおばあちゃんの名前が一部公開されているが、次のように50音に対応しているようだ。

1 あ あいこ
2 い いずみ
3 う うたこ
4 え えりこ
5 お 不明
6 か 不明
7 き きりこ

やはり7番目のキリコが最重要人物として設定されているのは何かの偶然なのだろうか。

塔の中では、ファンタジー世界でのスタジオジブリが描かれる。この世界を仮に異世界と名づけると、物語は次のように構成される。

現実世界→異世界でのスタジオジブリ→現実世界

この構成は、宮沢賢治の「注文の多い料理店」を想起させる。ジブリ作品では「千と千尋の神隠し」で同様の構成を見つけることができる。

ここで重要なのは、宮﨑駿は何度も長編映画からの引退宣言をしながらもその都度復帰してきたという事実である。

現実の宮﨑駿は齢80歳を迎え、アニメーションの世界で新しい作品を作り続けることに無理が生じてきているが、現実には創作意欲は衰えていない。この矛盾にケリをつけるために何度も自分に言い聞かせるように「引退」を口にしてきたのである。しかし、彼は長編映画を作りたいという欲求に抗うことはできなかった。彼の言葉を借りれば「(構想は)降りてくる」からである。

「創りたい」という欲求。「思うように筆が動かない」という年齢を重ねることから生じるストレス。そして現実的に「寿命」は待ってくれないという事実。

これらの答えを見つけるために、宮﨑駿自身が自分の脳の深くに入り込み、これまで閉じていた蓋を丁寧に開けていく。そこから何が出てくるかは、開けてみないと分からないのである。

そう。

「君たちはどう生きるか」という問いかけは自分自身にも向けられているのである。

そこで出てきたモチーフが「若き日の自分(眞人)が今の自分(大伯父)」に出会うというものだった。

彼が本当に映画の世界からの引退を決断することがあるとすれば、それは彼自身が決めなくてはならない。

しかし、自分で答えを出すのは難しい。そこで宮﨑は、脳内に「もう一人の自分」を設定し、メタ的存在である彼と対峙することで、答えを導き出そうとしたのだろう。

そして宮﨑は思考の深い場所へと潜り込んでいった…

(仮にこれを深層世界と呼ぶことにする)

深層世界に潜り込んだ彼は、封印されてきたボックスの蓋を開ける。

そして蓋の中から出てきたものを次々とイメージボードに表現していく。

かつての出来事や母や友に対する思い。スタジオに尽くして去った者。そのせいで才能を持ちながらジブリの外で生きていくことのできなかった者。スタジオに群がり利益を貪る者たち。作品へ込められた思いなど考えることもせず、無思考に全てを受け入れる大衆。

それらは、「大衆の戯画として描かれるインコ(劇場用パンフレットより)」といった具合に宮﨑駿の深層世界の中で、様々にキャラクター化された。

異世界は死んだ者の方が多い世界だった。多くのスタッフは宮﨑の欲求に応えることができずスタジオを去った。それだけではない。時の流れは残酷である。宮崎よりも若い者すら次々と鬼籍に入っていく。

眞人が最初に訪れた場所は「我を学ぶ者は死す」と書かれた墓。スタジオで働く者たちは
決して宮崎を超えることはできない運命にあることを暗示しているようだ。

眞人はペリカンに押されて、墓の門を開けてしまうが、ペリカンは大伯父によって連れて来られた者たちだった。

宮﨑は映画制作にあたり多くの絵描きを連れ込んだ。彼らは、腕に自信のある者たちだったが、スタジオにおいては、自由に個性を発揮できるわけではない。宮﨑は彼らに介入し、描き直しを命じる。これが幾度となく繰り返される。スタジオで働く限り、彼らは外の世界を求めても、どこにもいき場所がなく、ここに戻るしかないのである。彼らは「ワラワラ」と呼ばれる才能を食って生きているが、自分が生きるために仕方なくやっていることだという。スタジオで働くということは、自分の才能を差し出すことでもある。

宮﨑は深層世界でスタジオで働く者たちの現実と向き合った。宮﨑自身の作品世界を完成させるために、犠牲になった者たちの思いに触れざるを得なかったに違いない。

「ワラワラ」はキリコが釣り上げた大きな魚を食べて成長する。(後述するがキリコは高畑勲をモデルとしている)魚は「映画制作によって得られるお金や知識や経験など」の象徴である。それらを滋養にした「ワラワラ」は地上の世界に飛び立ち、新たな作品として生まれていく。

そんな深層世界の中で、いくつか描かざるを得ないテーマが表出してくる。

「母親への思い」
宮﨑の母は頭がよくモノをハッキリという人だったそうだ。そして厳しい。彼女は父親の2人目の妻であったことも、宮﨑の思いを複雑にさせていた。最初の母は病気で亡くなったが、父親はあっという間に再婚している。この事実にも触れざるを得ない。彼なりに決着をつけなくてはならなかった。

かつて宮﨑はインタビューで「若い頃の母に会ってみたい」「同年代の母と話してみたい」と語っていたが、彼の願いは「ヒミ」という眞人の母となって表出した。「ヒミ」は現実世界では火事で亡くなってしまっていたが、深層世界では、若いまま生きていた。ここに描かれる「ヒミ」は宮﨑が思う若い頃の母の姿なのだろう。快活で決断が早く頭がいい。そして優しい母。宮﨑はそんなイメージを引っ張り出してきた。

そして再婚後の母の姿は「ナツコ」として別キャラクターとして描かれた。深層世界では「ヒミ」と「ナツコ」は姉妹の関係にあるが、実際には両方が宮﨑の母親ということになるのではないだろうか。

宮﨑の母親への思いの強さは、過去作において母親をモデルにしたキャラクターが幾度も登場していることからも伺えるが、これまで直接的に「お母さん」と呼ぶことは憚られていた。
(ただし、「となりのトトロ」のお母さんを宮﨑の母と捉えるならば、それは例外かも知れない)

複雑な思いを乗り越えて「お母さん」と呼ぶことは彼にとって高すぎるハードルだったのかも知れない。

「ナツコ」は紙垂(しし)に囲まれた結界の中で新しい命を産もうとしていた。結界の中に入るということは「あの世」に足を踏み入れるということである。眞人があの中に入って「ナツコ」を「お母さん」と呼ぶことは宮崎にとって禁忌を犯すに等しい「超えなければならなかった壁」だったに違いない。

そこを乗り越えた眞人は正式に大伯父と対峙する権利を手にする。結界を越えようとした時、紙垂が2人に複雑に絡み巻きつくシーンがある。紙垂が回転する様はまるで映画のフィルムが回転しているように描かれている。暴れる紙垂は次第にその大きさを増し、まるで映画に使用される35mmフィルムのようである。


「友(戦友)への思い」
かつて宮﨑は鈴木敏夫のことを「親しいぼくの友人」と称したことがある。鈴木は自由すぎる宮﨑駿、高畑勲と付き合う中で必要な嘘はついてきた。時には声を荒げて議論を交わすこともあった。サギ男はまさに鈴木敏夫そのものである。

サギ男は現実世界の宮崎と深層世界での宮崎を出会わせる役目を担っている。高畑勲亡き今、この役目を全うできるのは鈴木しかいない。

実際、いい時も悪い時も陰になり日向になりスタジオを維持してきた鈴木への感謝の念は尽きないだろう。宮﨑が映画に専念できたのは、鈴木の存在無くしては語れない。

映画の最後に、眞人とサギ男が現実世界に戻ってきた時のアフレコでは、サギ男役の菅田将暉に対し、宮﨑から「もう1回」のリクエストが数回あったという。この時、宮﨑は惜しむが如く何度も同じセリフを言わせていたらしい。

現実世界に戻った眞人とサギ男は別れる運命にある。「じきに忘れる」というセリフが実感を込めて見ている側にも迫ってくる。

そしてもう一人の重要人物は高畑勲。高畑は、博識で理路整然とした現実主義者である。そんな高畑を宮﨑は尊敬しながらもぶつかり合ってきた。ファンタジーを描く宮﨑と現実を描く高畑。高畑はことあるごとに宮崎を否定してきたが、宮崎にだって、言いたいことはある。特に高畑の「映画がいつまでも完成しない」態度には相当のストレスを感じていたに違いない。

深層世界で出会った高畑はキリコという登場人物となって表出してきた。若き日の高畑勲である。キリコは自分のことを「オレ」と呼ぶ。眞人に対しては、この世界での振る舞い方を説明し、魚の捌き方を教える。ジブリ以前の2人の関係がそこにはある。

ジブリ後の2人の関係は描かれない。キリコは眞人を否定しない。そしてこの世界に迷惑をかけることもしない。もちろんそんな負の面を描こうと思えば描けたはずだが、宮﨑はそれをしなかった。高畑勲は去ったのである。

去ったという意味では、色彩設計の安田道世にも触れなくてはならないだろう。東映動画時代から宮崎、高畑と支え合ってきた彼女もまたこの世を去った。

眞人とサギ男が口論している時に「仲良くやんな」とキリコが間に入るシーンがある。ここではキリコの中に安田の姿も投影されているようだ。

宮崎にとって亡くなった高畑や母に深層世界で出会うというのは、やはり大きなテーマだったのだろう。

物語の最後に現実世界へと戻る時、ヒミ(母)とキリコ(高畑)は別の時間軸へと帰っていく。亡くなった人は同じ世界に帰ることはできない。ケジメはつけなくてはならないのである。

さて、いよいよ最終局面である。

深層世界における創造主は大伯父である。彼は現在の宮﨑駿だ。大伯父は空から降ってきた石(構想)から生まれた積み木という名の「作品」を微妙なバランス感覚で積み上げてきたが、彼も歳をとり、積み木のバランスが危うくなってきている。

ここにもう1つの作品を足せば、スタジオはもう1年保つことができる(深層世界では1日=1年で計算されている)と考えているが果たしてそれは正しいことなのか。

大伯父は眞人に問いかける。

この仕事の後を継いでほしい。

宮﨑は、今後の1年を支えるはずの、さらなる1作の長編映画を創ることができるかどうかを自分に問うたのである。

そして、出てきた答えは…

NOである。

脳みその深い部分にまで潜り込み、自分自身に問い、これまで蓋をしてきた色々なことを外に出し導かれた結論。

宮﨑は、正式に長編映画から引退することを決断する。

宮﨑の引退は、周囲に影響を及ぼす。特に、これまでスタジオを支えてきた株主やスポンサー、ありとあらゆる人間関係。そして、ジブリ作品を楽しみにしている(または無思考の)大衆。それらはインコとして描かれる。その代表であるインコ大王はスタジオの存続を大伯父に訴える。

大伯父はすでに次の作品を創らないと決めた。しかし、周囲が黙っていない。だから最後にもう一度重要なことを確認する。

ここに13個の積み木(作品のかけら)がある。これを悪意のない純粋な作品として創ることができるのかと。

そして、眞人は返す。自分には悪意があると。側頭部の傷は悪意の象徴だと。

これまでも傷を負いながら作品を造ってきた宮﨑は、純粋な気持ちだけで映画を創ることはできないことを再確認した。

自分に対してケジメをつけたのである。

ーーーーおわりーーーー

◯アニメーションの世界で、宮﨑は、創作の過程において「表に出したくない自分の嫌な面」も表現してきたに違いない。自分で作りながら自分も傷を負っていたのである。

眞人の自傷行為は自分自身のことでもあり、同じアニメーションの世界で生きてきた人間のことでもある。同じ傷を持つのはキリコ。高畑勲である。晩年は宮﨑と高畑の関係は良好とは言えなかったようだが、宮﨑の高畑に対する愛情は変わらない。彼らは戦友であり同志なのである。

◯大伯父の側頭部に傷があるかどうか。これは確認できなかったが、きっとある。大伯父も眞人も宮﨑駿だからだ。

そういえば眞人の父親がこんなことを言っていた。

「ハゲが残りそうだが、髪が伸びれば分からないだろう」

ところで大伯父の髪は見事な長髪だった。

◯微妙なバランスで積んであった積み木の数は8個。何かの意味があると考えた調べたところ、宮﨑駿が原作を担当した作品が8個あった。細かなこだわりに驚嘆する。

◯数字遊びでいえば、現実世界での1日が深層世界での1年に相当するという計算をしている。3日に1つ積み木を重ねるというのは、3年に1つの作品を発表するという意味だろう。

◯たまに大きな魚が獲れるというのも面白い。たまに大ヒット作が生まれるという意味だろう。大ヒットによって得られる収入によって次の作品を生み出すことができる。次の作品を作るために今作品を作るというジブリの経営のあり方が窺えるエピソードである。

◯現実世界に戻る時、眞人が1つの積み木を持ち帰った。これは悪意のない作品の象徴だとすると、宮﨑駿は長編映画から正式に引退するものの、誰にも迷惑を掛けない、純粋無垢な作品をささやかに創り続けていきたいという意思表示なのかも知れない。

◯インコ大王の手によって壊れゆく深層世界から脱出する時、再びキリコが登場する。

「こっちだ!」とナツコを呼ぶキリコの目は笑っている。緊迫の中の笑顔。高畑はどんなに追い込まれた状況でも飄々として切り抜けていく。締切に間に合わなくても「間に合わないものはしょうがない」と平然と開き直るメンタリティの強さをこの場面に見ることができる。

◯この映画の裏テーマは「人としての感性を取り戻す」ではないだろうか。

宮﨑は「言いたいことを『体制』から隠すために、悟られないように表現すること」を信条としてきた。(そして、それらを「悪意に満ちた映画」と呼んだ)

インコ大王は体制(支配者)の象徴である。大衆であるインコたちは無思考で活動し、そして決して体制を批判しない。現在の日本を痛烈に批判している。

深層世界は支配者によって崩壊を招く。これも宮崎による未来予測なのだろう。それでも世界の崩壊とともに、閉じ込められていたインコ達は塔の中から解放される。ここに強烈なアイロニーが隠されている。

解放されたインコは元の姿を取り戻す。閉鎖空間で感性を失った彼らは、外の世界ではリアルなインコとなり、自由を得る。

本来、人間もそうだったはずだ。しかし文明の発達と共に考える力を失った。人間が元の姿に戻るには、世界が崩壊するくらいのインパクトが必要なのだと宮﨑は訴える。

塔の外に脱出した眞人やナツコはインコの糞が降り注いでも気にしない。それが本来の人間の姿だからである。

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