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「もののけ姫」を読み解く


世の中は理不尽に溢れている。

自然災害や事件・事故。家庭や学校が崩壊し、テロや戦争が勃発する。こうして世界は緩やかに破滅への道を歩んでいるのだろうか。

人として生まれ、この混沌とした世界で生き抜いていくことは、早計サバイバルの様相を呈しているが…

「それでも生きていくべきだ。いや、この世は生きていく価値があるにちがいない」

「もののけ姫」で提示された「生きろ」というコピーが、今になって胸に迫ってくる。

物語の舞台は室町時代。

宮崎駿によると、太古の時代から人は争いを繰り返してきたが、この時期から「戦い方が変わってきた」という。

具体的には火縄銃の使用である。鉄砲の原型とも言える火縄銃は中国から伝わってきた。鉄鉱石から鉄をつくり、加工する。弾は有毒性の鉛を使用する。

鉄や鉛を扱うことで川は汚れ、生物に影響を及ぼす。山は病み、そして人も病む。

古来、自然環境は「バランス」のもとに守られてきたが、環境破壊の原因を辿れば、残念ながら人間に行き着かざるを得ない。それは既に室町時代から始まっていたのである。

病みに取り憑かれた森の生き物は、やがて人を襲い始める。かつて神と崇められた猪は獰猛な獣となり、人々と対峙する。

タタラ場は、現代社会の象徴として描かれる。

タタラ場の人々はエボシと呼ばれる支配者のもと、敵から身を守るために鉄を加工し、火縄銃を製造する。自国を守るためと称して兵器を開発し続ける現代国家と何一つ変わらない。

タタラ場というムラ社会において、エボシは頼りになるリーダーである。

彼女はタタラ場の周辺で親から捨てられた女の子を引き取って、自立させている。タタラ場では女性が社会の中心である。

男たちは主に戦闘を担当する。ムラ同士の争いに敗れれば、タタラ場を引き渡すしかない。そのチャンスを虎視眈々と伺う周辺のムラに取り込まれないためには、自分たちが強くなるしかない。彼女はその領土を広げるために、森への進出を画策している。

こうしてエボシと森の神々との戦いは激しさを増していた。

人間と猪との闘いにおいては猪に勝ち目はない。彼らはひたすらに前進し、人間を踏み倒そうとするが、虚しい抵抗でしかない。猪神の体に鉛が食い込みそれを蝕んでいく。猪神は弱い己の存在を恨み、そして人間を恨む。恨みは祟りを呼び、猪神はタタリ神へと堕ちていく。

世界に悪意が満ちている。

その悪意は、当事者同士の問題から逸脱する。いつの時代も無関係な人間が悪意に巻き込まれる。罪なき人々が何らかの犠牲を払うルールなのだ。

宮崎駿は、この被害者の1人であるアシタカを物語の中心に据えた。彼が構想した映画のタイトルは「アシタカせっ記」である。アシタカを中心に世の中の不条理を描く。彼はファンタジーの要素を借りながら徹底的にリアルな物語を綴ろうとした。(映画のタイトルは鈴木敏夫によって「もののけ姫」に変更された)

アシタカは自身のムラ、そしてムラの住人を守るために暴走するタタリ神(猪神)と対峙することになる。これは決して彼が望んだ戦いではない。

戦いの過程でタタリ神がアシタカの腕に取り憑いてしまうが、これは悪意の象徴でもある。

悪意に取り憑かれた人間は追放されるのがムラ社会のルールである。アシタカは一人、相棒のヤックルと共に生きていくため(あるいは死にゆくため)の旅に出る。

エボシと対等に戦うことができたのはモロを中心とする犬神の一族である。モロは人間の子(サン)を拾い、母として育てた。(これは狼が人間の子を育てるという伝説がモチーフとなっている)モロは森を破壊するエボシを憎んでいるが、元々は人間から崇拝された犬神であった。そんな人間を憎みきれないモロは、サンを人間の世界に返すことを心の底では望んでいる。

主人公のアシタカが、タタリ神に取り憑かれる原因を作ったタタラ場という社会に含まれていく展開は、皮肉としか言いようがない。人間は決して一人では生きていくことはできない。目の前にある現実の中で踠きながら戦うしかないのである。

彼の見たタタラ場は善意も悪意も含めた「社会」そのものだった。そして、それは人間の子を育てる犬神にも当てはまる。アシタカは、エボシの暴走を食い止めようとする。そして、同様にサンを人間の世界に戻そうともする。ここに描かれる一種の善行は、自分に取り憑いた悪意を振り払うための行いでもある。

果たして主人公アシタカの奮闘によって、世界は変わるのか。

こういう時、宮崎駿は無情である。ヒーローの登場によって、良き世界が訪れるという夢物語などあり得ない。彼は徹底的に現実主義に徹する。

「世界が変わるには、一度世界は破壊されなくてはならない」

森の象徴である鹿神はありとあらゆる生き物の生と死を請け負っている。命の根源を預かる鹿神は決して触れてはいけない存在であると同時に危険な存在でもある。

触れてはいけない禁忌。

食物連鎖により担保されてきた生物のバランスを壊すのは人間である。

禁忌を破り、我が物顔で闊歩する人間の悪意がもたらすものとは…

エボシとジコ坊はお互いの利益のために相手を利用した。そこに禁忌に対しての畏怖の念は皆無である。

彼らは鹿神の頭をもぎ取った。

決して犯してはならない罪。

鹿神が巨大化し、暴走し、森全体を破壊していく様は、核兵器により滅びゆく世界を暗示する。



宮﨑はもしかしたら森が完全に破壊される結末を描こうとしたのかも知れない。でもそれはできない。「風の谷のナウシカ」と同様に破壊後の未来を僅かでも提示しない限り、全く救いようがない。

世界は解決の難しい問題を抱えながら今も時間を前に進めている。国家や政治は、自分たちの利益を最優先し、他人を巻き込んでいく。巻き込む者も巻き込まれる者も同じ穴のムジナでしかない。実に人生は理不尽なのである。

人生の選択。

カオスな世界においても、人間は生きていくしかない。これから先、どのような問題が発生し、どう解決していくのか。先を読むことは益々難しくなっている。

それでも人間は、自分で道を選択し、今を必死で生きるしかない。

サンは森で生きることに決め、アシタカはタタラ場の再生に力を貸すことを決めた。

だから私たちも自分の人生を自分で選択し、懸命に生きることにしよう。

「生きろ」

宮崎駿のメッセージを、今、確かに受け取った…

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