残陽 10

あれから随分と時が過ぎた。
信幸と紫乃は切り麦の屋台に追われ
気付いたら時が過ぎたと感じていた。

最初から上手くはゆくまいと懸念していたが
それは杞憂に終わった。
毎夜の様に勇也や仲間たちが客を連れてきていた。
毎日が忙しい中で終わる。
用意する切り麦の量も
日に日に増えた。
信幸には
それはあまりにも幸せだった。

段々と江戸が開けていく。
色々と便利な町に変わっていく。
下り醤油に鰹節が手に入る様になった。
信幸のうどんは出汁の効いた醤油になった。
それでも高値ではあったが
二人は食べていけるだけ手元にあればいい。
自分たちよりはこの町に礼がしたい。
そう思っていた。

お美代が段々と夫婦の手伝いをする様になっていた。
父親が亡くなり、小麦畑は別の者が継いだ。
やがて勇也の世話で
夫婦の近くで暮らす様になっていた。

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うどんを打ち終え
信幸は夕陽を浴びながら
身体を拭いていた。
勇也たちが少しづつ
小屋の周りに塀を作ってくれたり
屋根や壁の隙間を埋めてくれた。
結果、小さいながらも中庭があり
そこに井戸が出来た。
だが紫乃は初めて昼間にその庭を見てからは
決して夕刻には近寄ろうとはしなかった。

ここで、こうして汗を拭っていると
信幸は故郷を思い出せた。
皆で木刀を振ったあの頃だ。
何もかもが暖かく幸せだと思い出せる時代。
そこに居た者は
もう紫乃しかいない。
だが今は新しい仲間がいる。
時が過ぎるとは
きっとこういう事なのだろう。
皆そうなんだ。
生きるとは
そういうものなのだ。
近頃はそう思える様になった。

熱った肌に井戸水が気持ちいい。
刀を捨てて良かった。
侍を捨てて良かった。
昔の仲間を思い出しながら
そんなちぐはぐな考えを持った。

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紫乃はその庭で夕陽を見るのが嫌だった訳ではない。
その赤の中にいる信幸を見たくなかった。
あの頃を思い出す事はあるが
そこには苦さがある。
信幸は新しい人生を喜んでいる。
紫乃だってそうだ。
だからこそ思い出に引かれたくなかった。
その庭は紫乃の生家に似ていた。
この庭の赤い夕刻は兄の姿を連想させた。

まるで兄•慎之介と再会する気持ちになる。
兄と話した言葉が何処からか帰ってくる。
信幸の所に稽古に行かぬ日は
兄は庭で木刀を振り汗を拭った。
そして沢山の話をしたものだった。

信幸と慎之介の体格は似ている。
そこに立つ信幸を見れば
紫乃は慎之介かと見紛うだろう。
紫乃はそれが嫌だったのだ。

「生きている者は
 生きなければならない。
 死人に引かれて何とするものか。
 兄の面影
 兄の言葉
 それに出会ってどうする?
 私はちゃんと
 兄の教えを行っている。」

紫乃は
今の信幸
今の暮らし
今の自分を取り巻く人々こそを
大切にするのだと
強く強く思う。

いや。
思うべきだと思っている。
女は生活を守る。
命を守る。
それが命を産む者の業なのかもしれない。
だが紫乃の気持ちに
偽りは無いのだ。


つづく
https://note.com/clever_hyssop818/n/nd750fcbd2f11

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