残陽 21

「自分は幸せだ。」

珍しく声に出た。
うどんの仕込みを終え
もう初夏の熱を帯びた空気に肌が焼ける。
井戸の水を目一杯に浴び身体を拭く。
己が内にある熱が外に逃げていく様だ。
その熱が空気を更に揺らがせるのだろう。

夏の夕。
その赤き陽が世を等しく染め上げる。
自分もまだあの赤の中に居たのかもしれない。
武士である事を捨てなければ
慎之介の喉から溢れた赤を
自分は見続けていたに違いない。

信幸には紫乃が全てだった。
国本では、それでも豊かだった田原家。
その全てを捧げても構わない。
信幸は紫乃に惚れ抜いていた。

一体何を?
言葉には出来ない。
ただ紫乃だけが自分自身から生まれ出たもの。
そんな気がする。
貧しくは無い田原の家で宛がわれたのでは無く
自分自身の内なる想いが具現化し舞い降りてくれた。
そんな夢の様に感じる。

男とは馬鹿なのだ。
武士が何だと言うのか?
面目や誇りが何になるのか?
ただ日常を生きる事さえ
こんなにも難しいのだ。

「生きるとは
 目の前にある大切な物や人を
 失わずに暮らして初めて語れるんだ。」

世は安定したのだ。
徳川が勝ったのだ。
徳川が脆くなければいいだけだ。
また戦さにならねばいいだけだ。

「慎之介よ。
 俺たちは馬鹿だったんだ。
 武は壊す事。
 俺は変わらず紫乃との暮らしを護りたい。
 武は要らんのだ。」

あの頃、夢を語り合った武士としての友に
信幸は語りかけていた。

武士であろうとした事を捨てた。
容易くは無かった。
必死にうどんを打ち、商いを覚えた。
そして今、二人で生きている。
向きを変えるのは悪い事では無い。
志を新たにするのは咎では無い。

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「ならば、死んだ兄様は?」

振り返ると縁側に紫乃が居た。
盆の上に西瓜と包丁を乗せていた。
ただその手が震えている。

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「私は夕刻の庭が好きではありません。」

「いいじゃないか。今日は暑い。
 二人で縁側で西瓜を食おう。」

嫌がる紫乃を信幸が説き伏せたのだった。

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兄に似た人影が振り向いた。
振り向いて何事かを言っている。

「紫乃?どうした?」

「生きるとは?
 大切な人を失わずに
 初めて語れるとは?」

「紫乃、、」

「武士であろうと懸命に生きた兄様は?」

「紫乃、済まぬ!そうでは無いのだ。

 ただ俺は武士を捨て
 紫乃と生きる日々に感謝しているだけなんだ。」

武士を捨てる?
兄様が決して言わぬ言葉。
兄様を侮辱する言魂。

「愚直に武家に産まれた身を全うし
 私の行く末を案じた兄様は、、」

紫乃の身体が小刻みに震えている。

「紫乃、落ち着くのだ。
 もう戦さは無いのだ。
 徳川に歯向かえる者はいない。
 もう武が物を言う時では無いのだ。
 武では生きて行けぬのだ。」

赤の中、兄に似た影が自分に近寄ってくる。
だがそれは決して兄様では無い。
兄の影をし自分を惑わせる物の怪の様な、、

「はあ、、」

紫乃は縁側にその身を倒した。

「紫乃!」

信幸は縁側に駆け寄り
紫乃の身体を抱き寄せようとした。
伸ばした手が肩に触れ
そのまま我が胸に取り込もうとした
その刹那、、、

「うっ!」

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赤い。
その刹那は赤に染まった。
紫乃の中でこの夕刻の様に
ずっと揺れ続けていた想い。
殺し続けてきた心根。
赤が呼ぶ影が紫乃の
兄の訃報を聞いた時の
その全ての自分自身を解き放った。

だから
紫乃の握った包丁は
駆け寄る勢いのままに
信幸の腹に吸い込まれていた。
深く、深くと。


つづく
https://note.com/clever_hyssop818/n/nf3a34e04312f

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