残陽 1

田舎ののどかな空気にも、戦乱の匂いは混じる。
いつか手柄を立て、己が家の名を響かせよう。
若い血は時代の空気の中に憤っている。
太閤様が亡くなられたのだ。
天下を狙う者が動き始める筈だ。

「戦」

大掛かりな戦さがあるに違いないのだ。
腕を鈍らせてはいけない。
勘を磨かねばならない。
匂いを嗅ぎ分けるのだ。
光明の匂いを。

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「慎之介は手首が柔らかいな。あの技は見習いたい。」
「何を言うか。信幸の刀に乗る力よ。あれこそは手先の技では太刀打ちゆかぬ。」

互いに互いを認め合う二人を、周りの者が笑顔で見ている。
田原家の屋敷には広い鍛錬場がある。
この地では名のある武の家である。
が、あくまで田舎の話に過ぎない。
世に知られたとは言えぬ。

「戦さがありそうだな。」
「そうだ。大きな戦さがあるに違いない。」
「光明だ。」
「うむ。我が藩、我が家の名を知らしめねば。」
「手柄を立てねばな。」
「日々の鍛錬にも力が入る。慎之介よ、互いに力を付けよう。来たる日に備えるのだ。」

若い二人は夕陽の赤に照らされながら、身体を井戸水で拭きながら言う。
浮き上がり流れる汗の一粒までもが、一日を無駄にしなかったという満足に変わる。
同じく力を蓄え武を示さんと願う男たちが、毎日この田原家の屋敷に通ってくる。
皆、田舎で燻って終わりたくないのだ。

それは太閤•豊臣秀吉という男が見せた夢である。
百姓に生まれた者が、この国を束ねたのだ。
生まれに縛られずともよいのだ。
誰もが資格がある。
途方もない望みとて掲げるが良いのだ。
だから田原信幸は先頭に立ち、木刀を振るのだ。

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「失礼を致します。握り飯を用意しました。」

不意に美しい女の声がする。
その声の主を見て、信幸は微笑んだ。

「紫乃、これから晩飯だぞ。」
「兄様、皆握り飯を食べたからといって、夕食が入らぬとは言いませんよ。」

慎之介と紫乃は笑い合う。

「そうだぞ、慎之介。俺は紫乃の塩握りが一番好きだ。」
「まあ、嬉しい。」
「おいおい、まだ夫婦になった訳では無いぞ。惚気るな。」

慎之介はまた笑う。
親友である信幸と妹の紫乃が仲睦まじいのは、何やらこちらまで幸せな気持ちになる。
信幸は初なところがある。
少し顔を赤くしている。
紫乃もそれに倣う様に、手で顔を隠した。

「いやよ、兄様。」

皆も笑い声を上げる。
幸せな笑い声だと思った。
この地で剣の腕を一番といっていては、いけない。
この眩しい女子を妻とするには、功名が欲しい。
この笑顔を守っていきたい。
夕暮れ時は、全てを赤く美しく染め上げる。
命の有り難みを感じさせる。
今日も生きた。
明日はより良く生きる。
赤とは、そういう色である。
そしてこの赤が纏う匂いが、信幸は好きだった。


つづく
https://note.com/clever_hyssop818/n/nf16b8cbd778a

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