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ウィーンのバラ

ウィーンにはたくさんの公園や庭園があるが、中でもフォルクスガルテンは美しいバラで有名だ。市民の憩いの場であり、観光スポットでもある。バラの花壇の手前にはずらっとベンチが並び、気候の良い季節になると、日向ぼっこする人、おしゃべりに興じる人、本を読む人、ちょっと座って休憩する人などで「満席」となる。花盛りの頃はほんのりとバラの香りが漂い、静かに座っているだけで豊かな気持ちになる。

この庭園のバラとベンチには里親制度があり、380ユーロで誰でも5年間スポンサーになれるそうだ。希望すれば「○○に捧ぐ」などのプレートを付けてもらうことができる。そのため、バラの木にはそれぞれ「大好きなママへ」「金婚式の記念に」「大切な友○○のために」などと書かれたプレートがある。それをひとつひとつ読んでいくと、深紅のバラに秘められたストーリーや、鮮やかな黄色のつぼみに託された希望、薄淡いピンクの花に込められた思いなどを想像して、時間が経つのも忘れてしまう。しかも、この庭園のバラのほとんどが誰かのために咲いているのだと思うと、一層美しく見えてくる。

フォルクスガルテンは国会議事堂、ウィーン市庁舎、連邦首相府などの官庁に囲まれているため、ウィークデーの朝は急ぎ足で庭園を横切る勤め人や、出勤前にジョギングする人などがいて、午後とはまた違った雰囲気だ。日中の人の多い時間帯に人間ウォッチングを兼ねてくつろぐのもよいが、ひとり静かにバラをじっくり鑑賞するのもまた楽しい。それができるのは、日曜日の早朝である。普段は朝の早いウィーンの街も、日曜日の午前中は人通りも車も少ない。

庭園は4月から10月末までの間は午前6時から開いているので、バラが見頃を迎える5月下旬か6月初旬の日曜日に一度は早起きをして、出かけてみることにしている。6時台や7時台であれば、ジョガーがちらほらいても、大抵は園内を一周して走り去って行くため、公園を独り占めできる瞬間が何度も訪れる。いつもは人がぎっしり座っているベンチもすっかり空だ。好きな時に好きな場所に座って休んだり、とくに気に入ったバラの前に立ち止まったりしながら、ゆっくり過ごすことができる。一通り花を見て回った後は、庭園を一望して満足した気分になる。まるで自分の庭を眺めているようで、すがすがしい。

今年も5月末の天気の良いある日曜日の早朝に出かけてみた。バラはまだ7分咲きだったが、「いつもの静かなフォルクスガルテン」を堪能した。

今から30年前の5月末のこと、大事な人々とオーストリアを旅行した際に、このフォスクスガルテンを訪れた。ちょうどバラの美しい時期だった。空はどこまでも青く、花と緑が一際鮮やかに見えた。「いいところだね」と、皆でゆっくり歩いた記憶がある。そんなこともあり、この庭園はウィーンの中でも私にとってとくに思い出深い、大切な場所だ。一緒だった人々のうち、2人はもう今はこの世にいないのだが、当時の写真と比べて景色はほとんど変わっていない。庭園にいると、まるであの時のように皆とバラを眺めている気分になる。

そういえば、そもそもウィーンの旧市街全体が、その頃から基本的に様変わりしていない。フォルクスガルテンの向かいにある国会議事堂などの古い建物は、改装されても外観はそのままで、街の面影は変わらない。ただ、ウィーンの街と人は当時よりも明るくなったように思う。以前はグレーでやや寂しげに見えた街並みも、今は明らかにカラーの印象だ。よく不機嫌だと言われるウィーンっ子たちも、若い人などはずっと愛想がよくなった気がする。ウィーンが活気づいているのは、観光客が増えたせいもあるだろう。ツーリストはいつでもどこでも上機嫌だ。そして、もうひとつ変わったのは路面電車。昔はステップを上ってよっこらしょと乗り込まなければならなかったが、今ではバリアフリーの超低床車両がメインに走っており、冷房も効くようになった。

フォルクスガルテンのベンチに座り、そんなことをあれこれ考えながらニヤニヤしていると、頭の上でブーンと音がして我に返った。ドローンだ。バラの花壇の上をゆっくり飛んでいる。誰が操縦しているのだろうと見回してみると、遠くのほうで白髪の男性が慣れた手つきでリモコンを操作していた。老後の趣味でバラの撮影をしているのだろうか。今日なら美しい写真や映像が撮れたに違いない。すると、今度は背後から人の声が聞こえてきた。ブルク劇場側の入口付近を、大きなカメラを首からぶらさげた年配の男性と女性が歩いている。あっちへ行こうか、こっちへ行こうか、やや迷い気味だ。中央の噴水にあたりには、楽しそうにスマホで撮影し合う若い男女もいる。

この庭園に足を踏み入れる人は、誰もがまず、はっと立ち止まってぐるりと眺め回し、にっこりする。あまりの美しさに小さく驚き、うれしくなるのだ。自分もここへ来ると必ず同じことをするから、きっとそうだ。

再び人の気配を感じてリング通り方面の入口に目をやると、少しあらたまった服装の男女と子ども二人が「いつものルート」を歩くように庭園を横切ろうとしている。近くの教会へ行く家族だろうか。時計を見ると、もうすでに8時を回っている。観光客が動き出す時間だ。

そろそろ帰るとしようか。



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