見出し画像

存在

先日、中学の同級生と久しぶりに会いました。一番仲良くしてた子で、ふわふわとしたかわいさが変わってなくて、楽しい時間を過ごせました。

「学校楽しい?」
「んーhosikaがいないから中学の方が楽しかったー」

こういうのをさらっと言える友達なんです。
自分で自分の価値を見いださなきゃ!といつもいつも思っているけど、他人に「あなたがいる(いた)から」と言われる以上に幸せなことはないと実感しました。結局、人のために動くことが好きなのかな。人が楽しんでいるのを見るのが何よりも楽しいですし。


そんなこんなで、進路について色々と悩む時期がやってきました。
世の皆はどうやって自分を言語化してるのでしょうか。自分の何を自信にしてるのでしょうか。私は自分のことが嫌いですし、自分に期待もしてませんし、誰かに勝る何かが眠っているとも思っていません。これはこの十数年生きてきて、錆び付いた心の有り様ですし、簡単には変えれるものではないと感じます。
そのため、この考え方を根本的に変えるというよりは、普遍的もしくは絶対的な何かが欲しいと思いました。誰がみても価値の変わらないもの。それが私の中では検定、資格の類いである、という結論が出ました。
本当は自分の興味のあること(好きなこと)を、学びたいと思います。それは私に一時の幸福を与えますが、時が経てば色あせ、私は学んだことも、学びそのものも自信にできない気がします。
ということで、大学は資格がとれる授業が開講してるところに行かなくては……とけじめをつけた次第です。
英検とか漢検とかも受けておきたいと考えています。この前漢検2級に受かって、たかが検定かもしれませんが、ほっとしたんです。私にも自信を持ってこれができるというものが手に入ったと。

でもそういったものが役に立たないこともあるのでは?
人間、経験が命なのかもしれない。何を体験し、何を考え、何を学んだのか。私にはたいした経験もなければ、それを言語化する能力もない!
自己アピールが苦手な出来損ない。

そこで、最初の話に戻りますが、そんな私にも私の存在を肯定してくれる人がいます。少なくとも私は誰かの隣で話を聞くことができるみたいです。というかそれこそが私の好きなことであり、得意なことなのでしょう。私が自分のことをあまり多く語らないのは、私のことを知ってもらいたいという欲がほぼゼロに等しいからですし、それよりも他の人のことを、目の前にいる人のことを知りたいという欲の方が大きい。だから、人間観察を癖でしてしまうし、人の話をよく聞く(何を考え、何に価値を見出だしているのかを知る)のです。

素敵な人に出会うと、どうしてもその人のようになりたい、その人が見ている世界を見たいと思ってしまいますが、自分の適性や傾向などを踏まえた上で行動するべきだと最近は思います。

人が好きだけど、自分のことを深く知ろうとしてくる人は苦手です。(自分は相手のことを深く知ろうとするくせにね)特に、たいして仲良くもない人は距離をおいてしまいます。だから、深い付き合いの人は本当に片手でおさまる程度しかいません。それでいいと思いながら、時々ふと寂しくなります。そういうときは、知らない誰かのことを考えて、もしかして気が合う人が世界のどこかにいるかもしれない、なんて夢見ながら深い眠りにつくようにしています。 

学校が始まるとまた周りと比べて落ち込む日々ですが、これも一種の経験だと思って毎日を生きたいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?