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こだわりスタンプ

 今週、インフルエンザに罹ってしまって、学校を休むことにした。
 担任の先生など他の先生方に迷惑をかけるのも申し訳ないと思い、自習時間の課題を、生徒たちとGoogleClassroomで授受するという初の試みをやってみようと思い立って、「テスト付きの課題」なるものをつくって投稿した。インフルエンザでぼやけた頭で、何とかそれらしいものができた、と思った。
 ところが、時間が終わって提出状況を見てみると、誰一人としてちゃんと課題が提出できていない。
 それで、元気になって出勤した最初の授業で、「これこれこうで、誰も課題が提出できてないみたいなんだけど……」と言ったら、生徒たちは、
      えーーー! やりましたよーーー。
      せっかくやったのにーーーー。
      めっちゃがんばったのにーーーー。
とか言いつつ、しゃんしゃんと、なぜ、わたしのところに課題が届かなかったのか、探求し始めた。「送信」のあとに「完了」を押してないとか、送り先がどうとかとか、電子機器に疎いわたしにはよく分からないようなことを、わたしに説明しつつ、どんどん問題を解決してくれる。
 へえー、こんなことができるようになったんだぁ……。
 生徒たちが、世代的に、こういうことができるのは、それほど驚くべきことではないのだけれど、どちらかというと、その態度にちょっと驚いた。4月にはまだ全然受け身で、コール・アンド・レスポンスはとてもノリ良くできても、こんな感じには動けそうになかった人たちが、誰に指示されるわけでもなく、こうやって前に進んでいけると言うことに。
 そのタイミングさえ来れば、ちゃんと成長していくヒトという生き物。生命の不思議というか、人間の子どもって本当に面白いです。そうプログラミングされているのかな。
                ☆
 ところで、こういうとき、「成長したね!」なんて、褒めることもあるのかもしれないけれど、わたしはどうもそれができない。なぜだろう?と考えたのだけど、どうやら、褒め言葉の成分には、どうしたって何%か、相手への束縛が含まれている、と感じるからだと思う。褒めてしまえば、相手はきっと、「この人はこういう自分たちの姿を期待しているんだ」と思うだろうし、そうすると、そのせいで、その集団の本来のバランスが、少し不自然にゆがんでしまう気がする。自然な状態ではない偽物の姿の相手に対して、一体どんな授業をすればいいのか、きっとわたしは分からなくなるだろう。
 ある集団が作る社会というものは、そこに参加する人の人数分のピースで出来上がった立体パズルのようなものだ。ピースの形は人それぞれで、まあ、出っ張ったところも凹んだところも円いところもとがったところもある。で、そういう人たちが一緒に時間を過ごしていけば、互いにだんだん組み合って、良いような、悪いような、一つの社会の形を作るのだと思う。わたしが下手に褒めると、わたしの意に沿おうとしたり、逆に密かな反発心が芽生えたりして、立体パズルは本来の姿より、少しいびつな形になってしまうと思うのだ。わたしは、それぞれが自分の持ち場でのびのびと自然な姿ではまっている様子を見ているだけの人だから、あまり褒めたりしたくない。褒めなくても、自分たちの工夫の結果、上手くいったり、快適になったりしたら、それで十分報酬を受け取っているんだと思っている。
 褒めるのは、不自然だとさえ、思う。
 もし、自分は・自分たちはこんなに出来たんですよ、と褒めて欲しがったら、その時はじめてわたしも「良かったね!」と喜びを共有する感じ。先回りは決してしたくないのだ。
                ☆
 そんなわたしには、職業上、小さなお困りごとがある。それは、上のような理由で、桜の花の「大変よくできました」のスタンプが上手く使えないということだ。
 最近では、絵柄も、可愛いデザインのものとかもあって、昔ほど堅苦しくないものがいっぱいあるが、なぜか、そこに書かれている言葉は、「かんぺき!」とか「OK!」とか「すばらしい!」とかばかり。「見ました」というのもあるけど、どれもこれも「見ました」では、「ホントに見たの?」と言いたくなる感じだし。学校の提出物に押すなら、どっちかというと「へぇ~」とか、「ふうん」とか、「なんで?」とか、「あはは」とかのほうが押しやすいのにな~、と思うのだけど、なかなかそういうスタンプがないので困っているのだ。
                ☆
 あと、怒られそうですが、noteの「スキ」も、「ふうん」とか「なるほど」とか「あはは」とかにしてくださると、抵抗なく押せるのですが。


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