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「仕方がなかった」なら裁判所は不要

最高裁のでたらめ「マスク判決」には、さすがに反対の声が大きいようですが、これは「ことマスク」のみならず、今後起こることが確実な「ワクチン薬害訴訟」にも多大な影響を与える結果となりました。

「あのときは仕方なかった」

思考停止の見本のようなセリフ。
この言い訳がまかり通るなら、今後いっさい何をやろうと責任を問われることはない、ということになります。
本当は嫌なのに集団いじめに加担した生徒も「自分だけ反対できる空気じゃなかった」でOK。
特殊詐欺の片棒を担いでも、「周りがみんなやってるから」でOK。
ナチスによるジェノサイドだって、当時のドイツ国内の雰囲気では「仕方なかった」となります。
「雰囲気」などという実態のないものを判断根拠に置いてしまったら、その先の原因究明はできず、いずれ同じ過ちを繰り返すことは必定です。

これから数十、数百、数千の「ワクチン薬害訴訟」が提起されるのは必至ですが、いくら争っても最高裁では「マスク判決」を前例として、こういう論法になります。

「あのときは仕方なかったんだから泣き寝入りせい」

ワクチンに害があろうがなかろうが、日本中が「打つのが当然」のムードだったのだから、誰にも責任はない、と。言い換えるなら、「(ムードに流されて)打った自分が悪い」。
何ら法的根拠もないのに嫌がる人にまで「強制接種」させた「不法行為」すら、「仕方がない」の一言で片付いてしまうのです。


将来どうなるかを予測することを法律では「予見性」といいます。
接種を推進した政府・厚労省や製薬企業、医師、専門家らに、この薬害は「予見」できなかった。とにかく日本中が「早くワクチンよこせ」の一色だったのだから、即席ワクチンに多少の瑕疵が生じるのはやむを得ず、よって責任を負う必要はない。
つまり「無罪放免」というわけです。

とんでもない!
接種が開始される前から、世界中の相当数の専門家がこの「ワクチンもどき」の危険性を「科学的に」訴えていたのに、裁判所がきちんと調べなかっただけの話です。「科学音痴」の裁判所ですら、「予見性」は十分すぎるほどありました。

では、なぜきちんと調べなかったのか?

単純に、マスコミで報道されていなかったから。あらゆるメディアで「言論統制」が敷かれ、偏向報道がなされていたのに、それにころっと騙されて、ワクチン懐疑派・慎重派の意見を「反ワク」と決めつけたからです。
公正・中立であるはずの裁判所が、情報源は何とテレビと新聞とYouTubeだけ。「偏見の権化」と化していたということです(それとも、圧力に屈して政府の顔色をうかがっていたか)。

このように、勉強不足の裁判官どもが単に「自分が知らなかった(調べなかった)」というだけで「予見性なし」と裁定されてしまう。
哀しいかな、これがこれから起こる「薬害訴訟」の必然的帰結です。
そもそも訴訟を起こすことすら能わず、すべて門前払いされてしまうかもしれません。

たとえ社会が狂気にとらわれていても、司法機関だけは正気を保ち続けなければいけない。この責任感、倫理観を、最高裁判事は平然と放棄しました。
もはや「法執行機関」を名乗る資格はありません。
厚生労働省と同時に最高裁判所も解体すべきでしょう。
だって、マスク強制に代表される「人権侵害の不法行為」を追認することで、みずから進んで人類史上最大・最悪の薬害事件の「共犯者」に堕したのですから。


確かに、マスクやワクチンの「科学的妥当性」をしっかり審理したら、これまでのウソ、デマ、インチキ、デタラメが暴かれ、ハチの巣をつついた大騒ぎ・大混乱になるでしょう。責任のなすり合いで、国じゅうがシッチャカメッチャカになるのは避けられません。

でも、それは「生みの苦しみ」というやつです。
そうやってこの国を「いまいちど洗濯」し直さなければ、「正しい社会」は決して生まれません。
問題ばかりでにっちもさっちもいかなくなった今の世の中をリセットするいい機会かもしれません。

苦難を乗り越えた先にこそ、希望があるのです。

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