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俳句&エッセイ・11月の無限 / 他俳句6句


十一月のどこにでもある無限


そんなつもりはなかったとしても‥‥‥人はいつの間にか十一月に深入りしてしまう。

それは十一月というものの通低音が「無限」でできているのだから、当然と言えば当然の話である。

一年を通して賑やかだった日々の舞台の、様々な大道具、小道具も、いつの間にかどこかへ片付けられていて、カメラの超広角レンズを覗いた時のように、風景は一瞬にして、遠景へ退いてしまう。

身の回りには、何もない荒涼とした空間が、どこまでも広々と続いている。

十一月の無限。


試しに他の月で考えてみる。

一月の無限。 二月の無限。 三月の無限。 四月の無限。 五月の無限。 六月の無限。 七月の無限。 八月の無限。 九月の無限。 十月の無限。 十二月の無限。 

どれもあまりしっくりとこない。

八月の無限だけはあり得る、のだけれど、それは過剰な生命の突端であるような季節が故の、逆説的な無限である。


十一月の無限は、言うなれば生粋の無限だ。
それはメビウスの帯のようにすんなりと、いつの間にか命の裏側に繋がっている。


だから十一月の雨の音は、ひとたび耳にすると、それはエンドレスで耳の底に棲みついてしまって、容易には消滅しなくなる。 
その音が唄っているのは、詩の行間にある底無しの無言だ。

十一月の夕暮れに、近所のアパートに灯された最初の窓の灯は、まるで地の底から灯されたかのように、心細く、懐かしい。 
かつて大事だった誰かの名前のように、それは深い場所で灯っている。

ポストに手紙を投函すれば、それは鳥のように何処まで行ってしまうか分かったものではないし、

コートや帽子に十一月の匂いを付けたまま帰って、玄関に掛けたままにしておくと、家の中は一晩中、深閑とした沈黙に支配されてしまうだろう。


十一月の広々とした荒野はまた、私の頭蓋の内部にも広がっているような気がする。


広大な無意識。


十一月に見る夢には、もうすでにいない肉親がよく登場する。

もう住んでいない、随分と昔の家も、頻繁に登場する。

もういない肉親達が、まだいる肉親達や家族達と、同じようにさりげなく談笑していたりして、何がなんだか理解しかねる荒唐無稽な筋書きの寸劇を披露する。

ちょっと燻った濃紺の十一月の夜の中で、そういう夢の切れ端たちが、色とりどりのパッチワークの様に繋がって、ほんの一瞬煌めいては消えていく。

もういない猫たちも登場する。

私は、実家にいる頃は、大抵猫と共に暮らしていた。
その時々で、赤虎もいれば黒猫もいれば、白猫の時もあった。
別々の名前の、当然の事ながら別々の猫なのだけれども、

それがなんと夢の中では、全部の猫が、一匹の猫に合体?して登場したものだから、目覚めた後でしみじみビックリした。

覚醒している意識では、あり得ない発想である。

そして私は、すべての猫が一匹になってしまっている猫、の名前を、夢の中で考えている、そんな不思議な夢だった。

十一月の無限の広大な懐の中には、色々な不思議が眠っている。
不思議なものの巨大な種が、そこかしこの軟らかな土に育まれているのだろう。

そしてその無限は静かに堅牢に、命と命の外側にあるものを結び付けているような気がする。


間もなく十二月がやってくる。

人は煩雑な現生の生業に追いかけられる。
中々におさまりのつかない疫病や戦争を乗せたままに、怒涛のように今年という年が終息へと向かっていく。
いいことも悪いことも、沢山の問題や心配事も一緒くたに、グルグルと時間の大詰めに巻き込まれていく。


十一月は、その慌ただしさの前の、ひと時の、休息であり、瞑想であるのかもしれない。




11月 6句


時雨るるや空が頬杖ついている

脱いだ靴そろえてひとり冬の月

青蜜柑半永久的な謎

いつの間に会わなくなりぬ帰り花

長き夜へ鉛筆ころがっていって落ちる

喉かすかに痛むよな初紅葉

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