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視野狭窄に拍車をかける理解力

理解をすれば、その事に対して賢く向き合うことが出来る。
無知であるという事は処理を難しくするからだ。
知らなければ社会から評価される対処は出来ない。
自分に被害が及ばない対処である。
誰かを助けてあげるという対処である。

ここではこういうルールだから。
これにはこうする事で対処できるから。

確かにそうだ。
そういう事は大事なのである。
大人であれば尚のこと、守りに重きが置かれる。

しかし、このルールを守らない者はけしからんと
一方的にその価値感を社会が決めていいのだろうか。
社会の多数派が、社会の知識人が、
『これはこういうものだから』
『今こういう流れできてるから』と決める。

個人の価値観がさまざまであるように見せて
操作され、押し付けられ、諦めさせられる。

それは日々拍車がかかる。
対象が、隣にいる友人ではなく
社会になった所以の事である。

挨拶をしない他人への理解を求められ、
友人知人の好きな食べ物も知らないのである。

しかし、とにかくそうしていれば、
安心で安全で平和な暮らしが対価として与えられる。
理解力が多数に好かれる条件となる。
道徳というものが歪んで見える。
挨拶はしなくてもいいけど、差別はするなと
言われているようである。

あの子はこういう状況で挨拶が出来ないという
その理解と、マイノリティの人がいるという理解と
それが理解されるべき世の中であるという理解。

これは発言していいけど、
これはこう発言すべきだという理解。
これは知らなくて良いが、これは知っておくと
お得だという理解。
友人の好きな食べ物は知らなくても損はないが、
他人の電気代は知っているのである。

知識人は会議の場で、こう言う。
『彼らは、こうだからこうなのです。』

なぜ苦しんでいるのか、なぜ戦争をしているのか、
情報を得て、理解をする。
理解をすれば腹も立たない。
理解をすればその世界が見える。
理解を示せばその社会に好かれる。
理解をすれば会議が充実する。
理解を促せば会議で活躍出来る。

対象が彼ではなく、彼らなのだ。
そして理解の目的は自分自身の保身にある。
全てがそうでなくとも、そういう傾向をしているのだ。
実に対象があやふやである。

『他人を理解してあげるために怒らない事、
取り乱さない事が賢い』と言う知識人から
見えるものは、怒りと取り乱しと自己防衛である。
隠しきれていないその感情を隠しきれていると思っている。
その怒りと取り乱しと守りが他人を巻き込んでいる
という事に気づいていない。むしろ良いことをしているのだという理解なのである。

理解とは他人に強要するものでも
他人から強要されるものでもない。
理解したのかしていないのかによって社会的立場を創造し、
はたまた憂さを晴らすという事でさえ
余白も融通もない状況を創造するのである。
ただ懸命に自分自身と他人の理解を促し
良かれと思う知識を駆使してことを推し進めるのである。

理解をしてほしい人は山のようにいる。
また、理解してあげている人は、
これまた理解してほしい人なのである。
ある一点だけの理解では成り立たないのである。

理解というものは理解してほしいと要求をする
ようなものではなく、
理解してあげるというおこがましいものでもない。
理解はされるものであり、
他人との戦いではなく、自分との戦いなのである。
視界はいつもひらけていて、
そこで自分が自分自身と戦わせて貰っているのである。 

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